高隅事件(鹿児島夫婦殺し事件)

1982年が明けてまだ浅いころ、私はこの事件にめぐりあいました。司法試験に合格した翌年のことです。司法修習が開始する前の寒い時期でした。最高裁判所から自宅に判例集が送ってきました。その判例集でこの最高裁判決を知りました。刑事事件における事実認定について興味深く読み、また冤罪被害者である彼の悲しみを痛みとともに想いました。84年4月に福岡市で弁護士を開業しました。その直後からこの事件の弁護団に入り刑事弁護の在り方を学びました。

主任弁護人は金井清吉弁護士。大森勧銀事件で主任弁護人を務められた門井節夫弁護士。同じ事務所の加藤文也弁護士。先輩弁護士の指導を受けながら、同期の幸田雅弘弁護士とともに被告人の無実を論証しました。

大雨水害による鉄路の不通を立証することによって証拠陰毛のすりかえを立証し、被害者がはめていた腕時計の停止時刻、被害者の胃の内容物、血中アルコール濃度などによってアリバイを証明しました。

証拠陰毛のすりかえとアリバイ立証が、無罪判決後に提起した国家賠償訴訟の展望を大きくひろげました。

それでは事件を見てみましょう。

この事件は1969年1月15日鹿児島県鹿屋市下高隈町で発生した殺人事件にかかわる冤罪事件です。

自宅で殺害された夫婦のご遺体は同年1月18日に発見されました。捜査本部は殺害の日時を同月15日午後8時過ぎと推定しました。その3ヶ月後被害者らの知人を犯人と疑い逮捕しました。逮捕理由は掛買の支払いが遅れていることを詐欺だとする、いわゆる別件逮捕でした。この別件逮捕による身柄拘束は数十日間に及びました。警察は長期間に及ぶ別件逮捕を利用して、夫婦殺害事件を徹底的に追及しました。彼は極度のストレスから心臓発作を繰り返し、意識を朦朧とさせました。そんな状況の中でこの夫婦の殺害を認めさせました。検察は自白を有罪証拠の柱として起訴しました。

新聞やテレビは警察が提供する情報を「報道」という名で流布しました。逮捕時には「うわさの男逮捕」と顔写真付きで報じました。テレビニュースも同じです。こぞって連日のように彼が犯人だと決めつける犯罪報道を繰り返しました。

第1審は彼の自白を真実だと認めました。彼は殺人罪で懲役12年(求刑は懲役15年)の有罪判決を受けました。控訴審も彼を有罪としました。

最高裁判所は有罪判決には法令違反及び重大な事実誤認があるとして破棄し差戻しました(最判昭和57・1・28刑集36巻1号67頁判例時報1029号27ページ)。

1986年4月28日差戻し控訴審は彼を無罪としました(判例時報1201号3ページ)。この判決は別件逮捕勾留は違法。その後の本件逮捕勾留もまた違法としました。検察や警察が作成した自白調書、裁判官が作成した勾留調書の自白部分は、いずれも違法収集証拠として証拠能力がない。さらにアリバイが成立するとしました。検察は上告できず無罪判決は確定しました。

私たちは刑事裁判の確定後、無実の彼を自白させた捜査の違法を理由に国家賠償請求訴訟を提起しました。

1993年4月19日鹿児島地方裁判所は、取調べ警察官及び担当検察官の捜査追行上の違法を認め、国と県に対して賠償を命じました(判例時報1468号39ページ)。この判決は警察の捜査の違法とともに、警察の違法な捜査を阻止しなかった検察の不作為をも違法であるとしました。

国と県はこれを不服として控訴しました。1997年3月21日控訴審福岡高等裁判所宮崎支部は国と県の控訴を棄却したうえ、付帯控訴を認め、遅延損害金の起算点を約6年8か月早めて、彼への賠償額を実質的に30数パーセント増額しました(判例時報1610号45ページ)。国と県は上告できず検察、警察の捜査を違法とする判決は確定しました。

拘留中に彼と家族とがやり取りした手紙の数はおよそ2700通。彼と家族が流した涙は掬い尽くせないでしょう。マスコミの犯罪報道は彼とその家族を絶望の淵へと追いやりました。学校で「お前の父ちゃん人殺し」と級友になじられたその子は夜ひとりタオルを首に巻きつけました。

刑事司法であり新聞やテレビはどのようにこの冤罪事件を教訓としたでしょうか。「仕方がなかった」「無罪になってよかった」とまるでひとごとのように片付けてはいけませんね。「報道」は何も変えず何も変わらず。犯罪報道が今でも同じ過ちを繰り返しているのでは困ります。


関連記事