大谷藤郎さん=心に花を抱く人

大谷藤郎さん=心に花を抱く人

 

大谷藤郎さんとはハンセン病訴訟において対峙させていただきました。でも話は精神保健にまつわるあたりからはじめなければなりません。

精神科病院の職員が入院中の患者に暴行を加えて2人を死亡させた宇都宮病院スキャンダルがありました。1983年のことです。この事件はその1年後に発覚しました。無資格者診療、患者虐待や不法解剖などの数々の違法行為とともに、世界を駆け巡りました。私たちの国の精神科病院の実像をあらわすものとして。

1985年、国連人権委員会のNGOであるICJ(International Congress of Jurist:国際法律家委員会)らは、私たちの国の精神科医療の法制度および実態について調査を行いました。ICJの第1次調査報告を受けて、人権委員会は私たちの国の精神科医療福祉の問題点を指摘し批判してその是正を促しました。

国際的なこの批判を受けて即座に動いたのが大谷藤郎さんでした。

大谷さんはすでに厚生省を退官されていました。それでもなお閉鎖性・隔離性の高い精神科医療の転換につよい思い入れをもっていました。当時の担当課長らとともに精神衛生法改正に力を注ぎました。これが1987年の精神保健法制定(精神衛生法を改正したもの)へと実を結びました。

大谷さんは厚生省公衆衛生課長時代に、1965年精神衛生法の改正を手がけていました。そのあと公衆衛生局長を経て医務局長に就き、1983年に退官しています。

1965年の精神衛生法改正にあたっては、さきに精神衛生実態調査を行い、のちに地域精神衛生活動指針をとりまとめました。この改正は地域精神衛生という新しいテーマそったものでした。精神病薬の健康保険への組み入れ、精神科医療施設への通院費用の補助、デイケア、リハビリ、精神科ソーシャルワーク、地域精神保健指導などの体制整備。これらによって患者が地域にあって平穏に暮らしながら精神科医療を受ける、そんな体制作りをめざしたものです。

「入院隔離中心主義をストップし」「精神にハンディキャップをもった人々を地域社会がどのように受け入れ、支持しなければならないか」ということを眼目しました。WHOでありケネディ教書の思想に遅れることなくなされました。

しかし大きく豊かに育つことができませんでした。冒頭のスキャンダルは20年後の最悪のケースとして現れたものです。

大谷藤郎さんはみずからの事としてこのスキャンダルを受け止めました。ICJの勧告を真摯に受け止めました。これを精神保健法制度改革に取り入れました。同意入院は強制入院であることを明確にして医療保護入院へと改めました。強制入院としてあるべき適正手続を定め私たちの精神科医療にかかる法制度を国際基準にそうように引き上げました。

私が大谷藤郎さんの働きを知ったのは1992年のICJ第3次調査に随行したころです。

ちょうど福岡県弁護士会において精神保健当番弁護士制度を立ち上げようとしていました。1987年の精神保健法においてすでに入院患者には弁護士との秘密交通権が保障されていました。精神病院に入院させられた人は、いつでもだれでも弁護士と立ち会いなく面会でき、退院請求などの法的手続きについて、有効な援助を受けることができる。そんな権利が保障されていました。

ところが弁護士・弁護士会は、その受け皿を準備していませんでした。精神病院に入院中の患者さんから退院したいという電話のあることさえ予想していませんでした。ほんとうに恥ずかしいことだと思いました。

そこで遅ればせながら精神保健当番弁護士制度を立ち上げようとしたのです。入院中の患者さんから電話があれば費用負担を強いることなく弁護士が駆けつけるという制度です。

この制度立ち上げに向けて私は私たちの国における精神衛生法―精神保健法の法制度の歴史と実態について調べてみました。

そうやってたどり着いたのが、呉秀三「精神病者私宅監置の実況及びその統計的観察」そして大谷藤郎「わが国における精神障害の現状―1963(昭和38)年精神衛生実態調査報告」でした。いずれも素晴らしい調査です。なぜこの調査と思想が私たちの国に根付かなかったのか、いまだに不思議でなりません。

大谷藤郎さんの活動は、87年精神保健法制定ののち「らい予防法廃止」へと向かいます。ハンセン病資料館の開設を起点として1996年には「らい予防法廃止法」の制定に漕ぎつけました。

1992年以降から私が知りえた大谷藤郎さんは、精神科医療における当事者にも人権支援団体にも研究者にも精神科医にも、とても評判の良い方でした。その人柄、おこない、見識、専門性、影響力などすべてにおいて、だれもが魅了されている。そんな感じを受けました。行政専門官にはめずらしい存在でした。

それはハンセン病療養所入所者の方々も同じでした。

私は1995年夏はじめてハンセン病問題にかかわりました。秋からハンセン病療養所をまわりました。その先々で大谷藤郎さんの誉れを耳にしました。「らい予防法」によって隔離収容された悲しみとともに語られました。

私たちは3年後の1998年に「らい予防法」国家賠償訴訟を提起するのですが、その原告の方々も大谷さんを尊敬し信頼している。そう皆さん口をそろえられました。

大谷藤郎さんの著書を見るとある特徴が繰り返し顔をだします。

「ステレオタイプ」を嫌い「小役人根性」を唾棄する表現です。官僚といわれる人の著書に「ステレオタイプ」や「小役人根性」を描きだしこれを批判する文章をみつけることは稀です。大谷さんの場合、さらにこの批判をみずからの行いに対してなされるところに特徴があります。担当行政専門官としての自分の行いに対して「ステレオタイプ」であり、「小役人根性」であったと、厳しく反省し悔いを述べます。

法律をかいくぐってなしうる精一杯の心あつい対応であったにもかかわらず、自らの不足の行いへの容赦のない叱責を怠らない。このことが人々の共感と尊敬を得たのだと思います。

正直なところ私は「やっかいだな」と感じました。

国を相手に裁判を起すということは、国の違法を証明することが必要です。国の違法は担当行政専門官の違法です。大谷藤郎さんはハンセン病問題の担当行政専門官であり、厚生行政のトップを経て、ハンセン病問題に関して最も多くの著書を成し、私たちの国のハンセン病政策の歴史を概観し丹念に表現した人でした。

この裁判での証拠の顔は大谷藤郎さんの「らい予防法廃止の歴史」でした。私たちの国のハンセン病問題を歴史的に総括したもののうちもっともスタンダードな本です。ですから私たちはこの著書を裁判の基本としました。にもかかわらず大谷さんは国側の証人となるべき立場の人でもありました。

そのうえ原告の方々は例外なく尊敬し信頼し続けているという事情ですから。

大谷藤郎さんの証人尋問は避けられないしその証言は裁判の帰趨を決めることになる。ですから大谷藤郎さんの証人尋問にはとても気をつかいました。

証人尋問は1999年8月27日及び10月8日に決まりました。事前の証人テストお願いしよう。それが無理としても直接話をうかがってお話だけでも伺おう。それもまた無理だとしても失礼のないように尋問前に挨拶はさせていただこう。

そう弁護団で話し合って大谷さんに連絡を取りました。

大谷藤郎さんは電話の向こうで「裁判での証言は問答の内容を整理したうえで行うもの。そのために事前に打ち合わせをする必要があることはわかりました。裁判には必ず出頭して証言します。しかし申し訳ないが事前の打ち合わせはお受けできない。ご容赦ください。原告の申し出をうければ、被告国の申し出は断れなくなる。そうなると収拾がつかない。思い起こせる真実を誠心誠意そのままお話しします。なんでも聞いていただいて結構です。ずいぶん前のことになるので記憶が曖昧になったところがあるかもしれないが」と丁寧に話されました。

「了解しました。お書きになられた著書を読み返していただければありがたく存じます」そうお願いして受話器を置きました。尋問当日の朝、たまたま宿泊したホテルが一緒で挨拶を交わすことができました。

「よろしくお願いします」

「はい」

ハンセン病問題で尋問前に会話できたのは、この時のこれだけでした。その表情はとても明るく体は力が漲っていました。もう間違いはないと確信しました。そのとおりに大谷証言は明確かつ清澄でした。

その後、精神科医療やハンセン病問題に関連してご意見をいただき、著書をご送付いただきました。私のほうからは無理なお願いを差し上げたりしました。ご自宅への連絡も厭われることなくお受けいただきました。

2001年国賠訴訟勝訴判決控訴断念に際しても大きな力をいただきました。また2008年の「ハンセン病問題基本法」の成立を心から喜んでいただきました。

大谷藤郎さんのいわば心の花のありようを「ハンセン病問題と専門家の責任」という講演録から若干引用したいと思います。

「私には、一人ひとりのだれそれに対して、また皆さんに対して、そういう批判を投げつける資格はありません。私はハンセン病にかかわる医学界の一人であり、また厚生省の官僚の一人でもありましたから、二重三重にみなさんより責任があるわけであり、そういう意味では、私はこういう演壇に立って皆さんにそのことを申し述べる資格はないのです。個人としても、一番謝らなければならない立場です。私が皆さんに申しあげたいことは、なぜ、もっと勇気をもって、もっと早く廃止の運動を進めることができなかったかという反省です。私をして戦うことをためらわせてきたバリアーは何だったのかという実態について、もっともっと自らの分析を深め、皆さんと一緒になって私の反省を問い続けなければならぬという心境でこの演題に立っています。」「処遇改善と真の人権尊重とは違う」「私はもっと早く闘うべきだった」「役人にしても誰にしても、一所懸命やっていればよいというだけのものではない。自分のやっていることは、大なり小なり歴史的な責任を負わされている」。

講演のたびにそう繰り返し話されています。

誰もが心に花を抱いていると思います。その花を育て大輪の花を咲かせたい。誰もがそう願っていると思います。でもその花を弱らせ枯らしてしまうこともあるでしょう。

心に抱く花の世話を欠かしてはいけない。そう思いながら大谷藤郎さんは水やりを絶やさず心に抱く花を咲かせ続けた人だと思います。

2010年12月7日知り合いの記者から訃報の電話を受けました。ちょうど宮古南静園で歴史的施設の保存について事前調査をしているときでした。わけもなくお元気だと信じていましたので言葉がでませんでした。

目の前に大きな赤いハイビスカスの大花が青空に映えていました。

 


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