保岡興治さん■情理に篤き人

保岡さんは15歳年上、法曹の大先輩。自由民主党に所属され2度の法務大臣。そのほか「精神障害に起因する犯罪の発生を予防するための方策の検討」に関する法務省・厚生省合同検討会座長、党憲法改正推進本部長、裁判官弾劾裁判所裁判長を務められた方。

2019年4月19日になくなられた。その6か月後、私がここでその人となりの一端を語る。縁は不思議。

2001年5月23日午前9時29分、福岡市にある私の事務所の電話が鳴った。
事務局が電話をとると「衆議院議員保岡興治です。至急連絡をいただきたい」との内容。
私は上京していた。
当時携帯電話はもたない。
事務所から弁護団の携帯電話保有者を経由して、この連絡を受けた。
すぐに議員会館の保岡さんの部屋に電話を入れた。

「総理が決断しました。ご安心ください」

前週末あたりからマスコミは私にしつこくコメントを求めてきていた。
「国が控訴方針を決定したという情報がありますが、コメントいただけませんか。」
「誤報です。」
「国が控訴方針に舵をきったとして、コメントいただけませんか。」
「国にそのような動きはありません。」
「一言いただけませんか。」
「誤報につけるコメントはありません。」

5月23日のこの日は朝から、マスコミは横並びで、「国控訴方針」から「国控訴へ」と報じた。
昼のテレビニュースもすべて「国明日にも控訴」。
夕方のニュースも「国控訴へ」と。

朝からコメントを執拗に求められた。
「国控訴へとの報道がでましたが、お気持ちをお聞かせください。」
「誤報です。」
「全社すべて国控訴と報じています。コメントいただけませんか。」
「全社すべて誤報です。」

官邸のぶら下がりで小泉総理が控訴断念を表明するその時まで続いた。

ハンセン病療養所では、国の控訴断念を求めてハンガーストライキをする原告がいた。
朝の保岡さんからの連絡の後すぐに「もう大丈夫ですからハンガーストライキはおやめください」と伝えることができた。
ハンガーストライキをしている原告だけではなかった。
多くの原告が控訴断念を求め、緊張を強いられ病に伏すほどであった。
だから「総理が決断しました。ご安心ください」の一報はありがたかった。

はじめてお会いしたのは10日前、5月14日月曜日にさかのぼる。
週末11日、熊本地裁で「らい予防法」違憲国家賠償訴訟の勝訴判決を受けた。その日のうちに上京し、国に控訴断念を迫った。
週明けから、厚生労働大臣面談、法務大臣面談とともに、衆参全議員への控訴断念要請活動を行った。

なにしろ、判決は厚生労働大臣だけではなく国会議員の法的責任を認めていた。
原告弁護団支援者はチームを編成して、議員会館ひとりひとりの居室を訪ねた。国会議員みずからがその非を認めて控訴断念への道を選択するように説いて回った。

その議員面談報告書の一通に目を止めた。
直前の森内閣で法務大臣をされた保岡さんの対応が記してあった。
「本人対応、判決に理解あり、話を聞いてくれた。好意的で感触よし」。
議員要請で議員本人が対応することは貴重だ。
しかも、与党自民党所属の有力議員で前法務大臣。
うわさでは小泉総理の法的アドバイザーであるとも。
「好意的で感触よし」とは。
このような巡り合わせは望んでもつかめない。
「これだれが行ったの」とメンバーに声をかけ面談状況を確認して、すぐさま保岡さんのアポイントをとった。

「裁判史上に残る快挙ですね。私も弁護団の一員になりたい気持です。ご趣旨は分かりました。法務省官房長にその旨をつなぎましょう。」
「私がいないときは私の立法政策立案担当秘書を使ってください。法務省との連絡調整などやってくれますから。」
初対面の私にそう言った。

保岡さんの力強い後押しもあって、法務省交渉の道筋が開け、弁護団と官房長の面談、そして17日には原告と森山真弓法務大臣との面談がかなった。

この間、坂口力厚生大臣面談、衆参両議院要請、与党公明党を含む各党の控訴反対声明などを得たが、まだ控訴断念への道筋はあいまいだった。

18日の時点で政府は、「判決は最高裁判例を逸脱している」「同種訴訟に多大な影響を与える」「国会活動に支障が出る」など、いわばお決まりの「控訴すべき理由」を並べていた。

21日に、全国の療養所を回り大量追加提訴を行うとともに、「政府声明」「首相談話」とともにする控訴断念という完成図案があがってきた。

その道筋にそって、控訴断念のために越えなければならないハードルのひとつひとつを越え、迂回してやりぬいた。
障壁あるたびに保岡さんの知己とアドバイスと力添えをいただいた。

23日には、もう国控訴はあり得ないところまで押し込んでいた。

その日受けた保岡さんから一報のとおり、14時には官邸から総理面談の連絡がはいった。総理は16時から原告らとの面談を実施し、17時過ぎ控訴断念を表明した。

国がやれないことをやらせるのではなく、国がやれることやるべきことをどうすればスムーズに進められるか。
その気持ちで保岡さんと一致して力を合わせた。

保岡さんとはハンセン病問題だけで終わらなかった。

薬害肝炎訴訟の解決にも大きな助力をいただいた。
当時は弾劾裁判所裁判長の職にあり、打ち合わせのために、何回となく裁判長室を訪ねた。
法務省訟務部との協議や折衝の仲介だけにとどまらず、当時の厚生労働大臣との知己をいただいた。

2007年12月、福田康夫さんは総理として自民党総裁として薬害肝炎訴訟を全面解決へ導いた。
これは与謝野さんだけではなく、保岡さんの後押しなしでは考えられないこと。

福田改造内閣では与謝野さんは内閣府特命大臣を、保岡さんは2度目の法務大臣を、それぞれ務められた。
私にとっては当然のことだった。

保岡さんは、憲法問題でも、精神障害者への対応でも、私とは正反対に近い違う考えを持っておられた。
そのことを話しあったたことはなかったが。

「おきはる。お母さんは、いつもこう思っている。ひとというのはね、命と健康さえ国がしっかり支えてあげれば、それでいい。いつ病気をしても安心して治してもらえる。それだけでいい。あとは、自分で努力するものだよ」。

保岡さんは、ご母堂様の教えをみずからの政治信条の中心にすえておられたのだろう。
「政治の究極の使命は国民の健康と安全を守ること」と。

「憲法問題は何時でも受けて立ちますよ。弁護士会の護憲討論でもシンポでも。声をかけてください」と促されていた。
がいちども公式の場で議論することはなかった。

誰にも告げずなんども癌手術を乗り越えられた。
毎日、朝早くから体を鍛え、書を読み書くことを日課とされた。
「夜の8時頃になって仲間と飲みに行ってわいわいやるような生活をするのは本物の政治家ではない」とも戒められていた。

すこし愚直で、代償を求めず、情理に従って、いつも助力を惜しまれなかった。

最後にお会いしたのは亡くなられる10カ月前のこと。再審法改正の件で敬天法律事務所にお邪魔した。
膵臓癌手術直後だったが、いつものように法務省の担当者をご紹介いただき、法案や政策を通すためのいくつかのアドバイスを受けとった。

「僕はもうこれから何もできないけど、いつか大きな成果をあげられると期待しています」。

真っ直ぐの視線と穏やかな笑顔をいただいた。


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