大崎事件

私は高隈事件国賠訴訟の法廷で、その人と初めてお会いしました。冤罪高隈事件で捜査主任をされた警察幹部の尋問を行った日でした。

彼女は傍聴席から私たちの法廷活動を見据えておられました。尋問がすんで支援の方の紹介で立ち話。ほとばしるように無実の言葉が流れでてきました。私の受け皿が小さすぎてその日はそのまま別れました。その後何度もお電話をいただきました。とにかく長くなる電話でした。手紙もいただきました。丁寧な字で何千字にもおよぶものでした。

高隈国賠一審勝訴判決がでて、この方の再審準備に入りました。彼女は被害者の長兄あたる方の嫁。彼女の刑期は10年で一番長く、「あなたは所内での生活態度がいいので、事件の反省さえすれば仮釈放がもらえる」と刑務教官にすすめられたが「やっていないから反省することはない」と罪を認めず満期を務められました。共犯者とされた被害者の長兄にあたる夫も次兄も次兄の長男もすでに刑を終えて出所されていました。

離婚された長兄に面談しました。被害者のご遺体は牛小屋に遺棄されていました。その地続きの隣家の自宅で一人暮らしをされていました。ご遺体が発見され誰も住まなくなった弟の家を自宅とともに守っておられました。庭もきれいに保たれ、花を愛でておられました。「私は何も悪いことはしちおらん」そう震える声で話されました。「ご一緒に再審請求されませんか」「刑務所でちゃんとつとめてきたし、なにもしなければ、もうなにもされない」と静かに生きるほうを選ばれました。その長兄も亡くなられました。話しぶりから知的な障害のあることがうかがえました。

次兄もその長男も濡れ衣だと叫び、再審請求をしてくれる弁護士を探されていました。次兄は再審請求をもちかけた弁護士から「無罪の証拠をもってきてください。」そう言われて失意のうちに自死されていました。長兄と同様に障害があるとうかがいました。

次兄の長男は無実を叫びながら精神病院に入院させられていました。吃音があり知的な障害や精神的な不安定さにたいへんな生きづらさもっておられました。第1次再審での検証の折に、大声で騒がれました。

犯行があったとされるその夜、彼はなにも知らずに寝ていただけ。のちにご遺体で発見された被害者であるおじさんの行方を探す手伝いをしていただけ。そう繰り返し大声で叫んでおられました。「お前の指紋が現場についている」と警察官に云われました。そのうえ陰毛をむしり取られ「これが証拠だ。お前は強姦して女を殺した」そう問い詰められた。おじさんを探す加勢をした時に現場も回ったので指紋もついただろうし、もう何を言っても信じてもらえない。そう絶望して自白調書に署名した。といって泣きました。

その彼は第1次再審1審の途中で合流し、証言をした後、再審開始を待ちきれず自死されました。

それでは事件を見てみましょう。

この事件は1979年10月、鹿児島県曽於郡大崎町で起こった死体遺棄事件にかかる冤罪事件です。

 1979年10月15日大崎町の自宅併設の牛小屋堆肥置き場で、同月13日から行方が知れなかった家主(当時42歳)がご遺体で発見されました。その3日後の10月17日(通夜)に自白供述がとられ、18日(葬儀)に長兄(当時52歳)と次兄(当時50歳)が殺人及び死体遺棄容疑で逮捕されました。逮捕理由は先行した任意取調の3日目深夜に二人が犯行を自白したとされています。

 はじめはこの2人の犯行として自白させられましたが、長兄は足が悪く2人だけで、殺人を敢行しご遺体を運んで遺棄するのは無理とし、次兄の長男が死体遺棄に加担したとの自白供述に変わりました。

 さらに警察はこの3人の人たちでは犯行を計画することさえできないと考え、長兄の妻を主犯とする保険金殺人と見立てて追及しました。

 長兄の妻が酒癖の悪い義弟を保険金目的で殺害することを企図し、長兄と次兄に指示して実行させ、次兄の長男に加勢をさせて遺棄したとの想定です。この想定に基づいて長兄、次兄の自白供述が作られ、10月27日には次兄の長男(当時25歳)が死体遺棄容疑で逮捕されました。ついで同月30日に長兄の妻(当時52歳)が殺人・死体遺棄の首謀者として逮捕されました。長兄、次兄、次兄の長男はそれぞれ警察の見立てどおりの自白供述をさせられ起訴。彼らは起訴後も争うことができませんでした。長兄の妻は捜査の初めから否認を貫きました。

 1980年3月31日、鹿児島地方裁判所は警察・検察の想定通り長兄の妻を主犯、長兄と次兄らが被害者を西洋タオルで絞め殺し、次兄の長男に手伝わせて牛小屋堆肥置き場に死体を遺棄したとして有罪としました。動機とされた保険金目的は矛盾証拠があり認めませんでした。長兄の妻に懲役10年、長兄に懲役8年、次兄に懲役7年、次兄の長男には懲役1年の判決でした。長兄の妻は一貫して否認を続け即日控訴しました。長兄、次兄、次兄の長男は審理中から罪を認め控訴しませんでした。

 福岡高裁宮崎支部は同年10月14日長兄の妻の控訴を棄却しました。彼女はさらに即日上告しましたが、最高裁は1981年1月30日、上告を棄却し有罪判決を確定させました。長兄も次兄も次兄の長男も自分の裁判では罪を認め、控訴も上告もしませんでした。しかし、長兄や次兄は長兄の妻の法廷では、自らも無実だと証言しました。次兄の長男は、刑務所の中でも、出所後の自宅近所や病院でも、「やっちおらん」と大声で叫び続けました。

 ちなみに、冤罪鹿児島夫婦殺人(高隅)事件、冤罪鹿児島ホステス殺し事件、いずれも同じ捜査体制と供述調書に依存した裁判によるものでした。

 知的障害・精神的障害の存在を確認することなく、その弱点を突くように自白供述が作られた。その共犯者とされる人たちの悲しいウソの自白を有罪証拠とした冤罪事件です。

 1995年4月鹿児島地方裁判所に彼女の再審請求をしました。1997年9月には次兄の長男が再審請求に加わってくれました。その彼も再審請求審での証言後、開始決定を聞くことなく「裁判官も信じちてはくれん」と心閉ざして自死しました。

 2002年3月26日再審開始決定を得ました。しかし検察の即時抗告に福岡高裁宮崎支部は2004年12月9日に再審開始決定を取り消しました。最高裁は私たちの特別抗告を2006年1月30日に棄却しました。この間の2004年1月、次兄の長男の再審請求を受け継いでいただいたその母もなくなり、次兄の長男の再審請求は請求人死亡につき終了しました。

 2008年8月30日に、第2次再審請求を鹿児島地方裁判所に提起しました。2011年8月30日に長兄の娘さんが加わってくださいました。しかし、第2次再審請求は、2013年3月6日請求棄却、2014年7月15日即時抗告棄却、2015年2月2日特別抗告棄却という結果となりました。

 私たちは、すぐに第3次再審請求をいたしました。2015年7月8日、長兄の娘さんと一緒です。迅速でかつ充実した審理がなされ、2017年6月28日鹿児島地方裁判所で2回目の再審開始決定が出されました。同年7月3日福岡高裁宮崎支部に検察官による即時抗告がなされ、2018年3月12日同即時抗告は棄却されました。しかし、その後、検察官は特別抗告をし、最高裁は、2019年6月25日、原決定、原々決定を取り消し、再審請求を棄却しました。

 私たちは、2020年3月30日第4時再審請求を申し立てました。

 再審開始の要件となる新証拠の多くは捜査機関の手元に眠っています。有罪を疑う証拠は、警察や検察の段階で見逃され、廃棄され、留め置かれます。被告や弁護側に開示されることはなく、ましてや裁判所に提出されることはありません。

 この事件でもそうでした。現場に残された足跡や指紋は収集されたはずですが提出もされず検討もされていませんでした。被告を有罪とする証拠ではなかったからです。それは請求人らを有罪とすることに疑いを生じさせる証拠でもあります。彼らは、何の細工もせずに、現場に立ち入り、穴を掘り、被害者を埋めたことになっています。しかし、請求人らの足跡は一個も発見されていません。指紋も、毛髪も、その他の客観的な痕跡は何も残されていません。これらの状況証拠は、請求人らの関与を否定するものです。

 警察の現場保存と現場からの証拠収集がずさんだったのでしょうか。そんなことはありません。丁寧に一個ずつ足跡の型を残さず石膏にとっています。堆肥をすべて掘りあげて、虫眼鏡とピンセットでより分け、請求人らの毛髪を探しています。実行犯であったとすればあるはずの場所から指紋も足跡もその他の証拠はなにも採取できませんでした。加えて共犯者とされる人たちの自白供述によって得られた有罪方向の証拠もありません。

 平和な日常を送っていた4人の冤罪被害者は、一転して、奈落に落とされました。
繰り返しになりますが、生前長兄は毎日のように亡き弟(被害者)の庭を自分の庭とおなじようにきれいに掃き、弟の家と自宅との間にこしらえたちいさな花壇を手入れされていました。その人に彼女と一緒に再審請求をされませんかとお誘いをしました。その私に身を正すように直立されて、「もう終わったことです。なにもしなければ、これ以上虐められることはないので、再審はいたしません。」と、答えらえたのを覚えています。
 次兄は、出所後、その長男とともに再審請求をしようと、弁護士事務所を回ったが「証拠をもってこないとできない」と断られ、再審請求の準備が遅々として進まない中で自死されました。
 その長男は、第1次再審請求において証人尋問後、開始決定前に自死されました。
アヤ子さんは、刑を満期で終えて、実家に帰り近所の畑でピーマンちぎりのアルバイトをしながら再審請求費用を準備されました。
 罪を晴らさないと死ねない、両親のもとへ行くことはできないと訴え続けました。

 この世に生を受けて、社会から冤罪で虐げられる以上の苦しみ悲しみを強いるものはないと思います。法と正義の名において、汚名を着せ、身体を拘束し続け、人生そのものを破壊します。その人の尊厳や名誉だけではなく、家族も友人も、仕事も時間も、自らの意思で生きる人生そのものを制約されます。たった一度きりの人生を根こそぎ奪われる。それが冤罪被害です。

 このような法制度を含む社会システムが否応なく生み出す悲嘆を「社会的悲嘆」と呼ぼうと思います。ハンセン病療養所での患者隔離による隔離被害、薬害によるいのちと差別の被害、そして冤罪被害等、これらは、人生全般にわたり、尊厳、人格、名誉、財産、いのち・健康等、人間が社会で生きるということの本質をことごとく制約し損なうものです。私たちは社会の主役であるはずです。社会システムを作り、作動させているのは、私たち一人ひとりです。ですから、このような社会的悲嘆は、社会であり、国に責任があるとともに、私たち一人一人が直接に負うべき責任があると思います。

 再審請求審では、早期に、捜査段階から収集してきた全証拠を開示すること。この全証拠開示こそが審理の出発点です。そうでなければ有罪判決の正当性を確かめられません。刑事裁判といえども、判決は、その時点で提出された証拠に基づく判断にすぎません。しかし、それはひとの人生、命そして名誉を奪います。ですからその確かさは時代を超えて検証される必要があります。そうであってはじめて、社会的正義であり、司法への信頼ははじめて保たれます。

 私たちの社会が生み出した冤罪事件の群れがいまやっと少しずつ明るみにでてきています。えん罪に蓋をするのではなく、えん罪を発見し検証することによってはじめて私たちの刑事司法システムはよりよいものへと発展します。えん罪を発掘しこれを刑事司法改革へつなげていくシステム。これをみなさんとともに構築していく時代になりました。


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