池永満さん=哲理の人

2012年12月1日池永満さんは亡くなられました。

ちょうど丸2年がたちます。

弁護士登録した初めのときから私を引き立ててくださいました。

医療過誤訴訟からハンセン病問題まで、患者の権利を確立する仕事を中心にご一緒させていただきました。

偲ぶ会によせさせていただいた追悼文を載せます。

 

以下にmaroonで表記したものは、池永満「医療事故が提起しているもの」(医療に心と人権をー第1集1981年刊)から抜粋したものです。

 

いま医療事故における責任追及が、「病める医療」に人間性のひかりを照らす重大な道義的役割をも果たしつつあると感ずるのは私だけだろうか。

医療事故における責任追及は「保身医療」を生むとの見解もあるが、むしろ医療過誤訴訟の前進が、人間の生命を扱う者としての「道義心」や医療事故における原因究明や相互批判等の「科学的良心」など、本来医師や医療機関が有すべき当然の「倫理」の不存在を鋭くえがきだし、医療界内部における「医の倫理」の確立への機運を高める積極的要因となっているのが現実ではないだろうか。

ところで「医の倫理」は単に「心」だけの問題ではない。私は、先日医学部の学生達と話をしているうちに一つのことに気がついた。医療の荒廃をなげいているかたわら、治療における医師の自由裁量権を当然の前提、「聖域」としていることである。病気と闘うのは患者自身であって、患者の主体性なしに治療は効果をあげえない。医療は本来患者自身のためにあるし、どのような医療を受けるかは患者自身が決定すべきことである。患者を単なる「対象物」とする「医療」は真の医療ではない。

その意味では、診断・治療における医師の「自由裁量論」自体が批判され、克服され、新しい「医の倫理」が打ち立てられねばならない。真に患者のための医療を実現していくために、「健康権」を提唱した80年度日弁連人権大会は、医師の自由裁量論に対し医療における患者の「自己決定権」を対置している。いずれにしても、医療において決定的に患者の人権を確立すること、これが「赤ひげ」的倫理に代わる新しい医の倫理と論理ではなかろうか。そうした立場での責任追及は、必ずや、医療を担う人々自身の中に生まれている、患者の人権を確立しうる医療制度―患者を単なる「対象」とせず、対話しながら患者の納得のいく治療を現に実施できるような医療制度―の確立を求める運動と結合し、医療改善の闘いとして大きく発展するであろう。

 

この文章に納得して私は医療問題研究会に入会しました。

抑えた語調ではあるもののよりよい医療への熱情がほとばしっています。

医療事故被害に寄り添いながら「病める医療」に弓を弾く。

その被害回復と再発防止の過程を経ること。

そのことによって患者の人権、主体性を基軸としたあたらしい医療を作る。そのようなメッセージを読み取りました。

 

1984年10月14日全国起草委員会は名古屋で「患者の権利宣言」案を確定しました。

同年12月9日東京集会で「患者の権利宣言」を発表しました。

これらは患者の権利運動の成果のひとつを社会に向けて発信したものです。

池永さんは「案」のまま患者の権利運動を展開すべきだとのご意見でした。

運動の目的は「患者の権利宣言」を確定することではなく、地域に患者の権利を浸透させること。

だから福岡では「案」のまま提示し、これを確定するための議論を展開しようと提案されました。

福岡における患者の権利推進運動として、患者の権利宣言案「よりよい医療をめざして」アンケート調査活動を展開しました。

市民や医療関係者との対話を通じて、患者の権利を根のあるものにしたかったからです。

私にとって印象的な出会いがたくさんありました。

 

末期がんで療養中の病院経営者である内科医をインタビューした時のことです。

「私は自分で末期がんであることは分かる。しかしどの医師も私に癌の告知をしてくれない。その種類、位置、大きさ、進行度、余命など何も教えてくれない。私には逝く前にしておかなければならないことがある。ほんとうのことを教えてくれと言っても、知人の医師でさえ口を閉ざす。こんな医療は残念で残念でならない。」と院長室にガウン姿で現れてこられ、患者として真実を告げられないことの痛みを訴えられました。

 

このような体験を経て、患者の権利法制定運動へと進展していきました。

 

私はいつの間にか研究会事務局次長、研究会活動推進本部長、患者の権利推進委員長などの肩書が付されていました。

医療問題研究会は九州・山口全域に拡大し、九州・山口医療問題研究会へと名称を変えました。

その後福岡県弁護団団長、研究会代表幹事へと「出世」したわけです。

池永さんは組織づくりが大好きでした。

ある日いきなり提案されて、私は組織名や役職名が大仰だなと思うことがありましたが、その場の二つ返事で受け入れていました。

説明を求めたことも、議論をしたことも、ましてやお断りしたこともありません。

この研究会を池永さん手作りの少年探偵団のように思って楽しんでいたからかもしれません。

 

医療問題研究会の黎明期を担った弁護士は全国にたくさんおられるのですが、池永さんにもっとも近しかったのは、辻本育子さんをのぞけば鈴木利廣、加藤良夫両弁護士でした。

患者の権利宣言運動が一段落したころ、鈴木弁護士は薬害HIV訴訟へ、加藤良夫弁護士は医療事故情報センターへと進みました。

池永さんは患者の権利法制定運動を経てオンブズマンへと進みました。

 

同じく、池永満「保険診療における審査と指導・監査の法的問題点」(医療に心と人権をー第3集1986年刊)より抜粋します。

 

なぜならば、健康保険法の仕組みというのは先程も言いましたように、もともとは保険者と被保険者つまり国民・患者の健康権を全うする為に、契約が結ばれています。そして、保険者みずから療養の給付ができないから、それに代わってお医者さん達、或いは保険医療機関に療養の給付を担当して下さいというふうに言ってる訳です。とすれば、健康保険法に基づく療養の給付というのは、国民の健康権を全うする為に、それにふさわしい内容の契約にならなければいけない。

つまり、療養担当規則が、本当に国民や患者の最善の医療を受ける権利、健康や生命を維持するという憲法上の権利を満たすものになっているのかどうかという観点から健康保険法自体、或いは健康保険法に基づいて作られている通達、療養担当規則自体が見直されなければならない。

 

この講演録全体は医療行為の法的側面をわかりやすく解説したものです。

私もこの時期ちょうど診療報酬減額問題に携わっていました。

療養担当規則に基づく減額査定に関して法や通達を調べるうちに、偏頗な法の運用がなされていることに気づきました。

濃厚過剰診療への監査が跋扈する中で、過小、不適切、不合理な診療に対する監査が機能不全に陥っていました。

公費の適正負担を問題とする前に、国民の健康の維持、適切で合理的で十分な医療の提供がなされているかどうかがまず問われなければならない。

それなのに実態は前者ばかりが喧伝され、後者はあたかも傷害や殺人に匹敵する不正行為だけしか取り上げられない。

このような制度上の欠陥を踏まえて患者の権利法制定の必要性を議論しました。

患者にとっても、医療者にとっても、患者の権利法は必須の法制度であると。その萌芽となる講演録といっていいと思います。

 

1990年代に入って私は日弁連の人権擁護委員会医療部会に所属します。

そのうち「精神障害者」の人権、「脳死・臓器移植」の可否という二つの人権課題が社会問題として立ち上がりました。

この二つはこれまで日弁連で意見の統一をみていない人権課題でした。

人権擁護委員会と刑法委員会とがそれぞれに委員会意見をだし、両者の折り合いがいまだつかないという状態でした。

日弁連執行部の提案で、執行部と両委員会のメンバーで組織するワーキングチームを立ち上げて、意見の統一を図ろうということになりました。

私は両方の委員会に所属しながらこの関連小委員会に参加して、相互の意見調整をスムーズにする役割を与えられました。

 

池永さんは患者の権利法制定運動について、患者と医療者との真の信頼関係、相互に主体性を認めつつ協力し合う関係の構築を、その推進の柱としました。

その具体的な課題として取り上げたのが、診療報酬制度と脳死臓器移植でした。

水準以下の診療を許さない「患者の権利法」によらなければ診療報酬制度の適正化は図れない。

医療政策に関する社会的合意やインフォームドコンセントが成立するための前提となる「患者の権利法」なくして、脳死臓器移植治療は認められない。

だから「患者の権利法」制定を基点とする医療法制度の改革こそ急務であると。

私も同じ意見でした。

 

1995年11月池永さんらと私は鹿児島にある国立ハンセン病療養所星塚敬愛園を訪ねました。

この年の夏「らい予防法」によって隔離され続けてきた島比呂志さんから手紙をいただきました。

「らい予防法」は患者の権利をはく奪する最たるものである。

「患者の権利法をつくる会」が「らい予防法」の廃止にあたり何らの総括をしない。

法曹であるあなた方が「らい予防法」の存続に手をかしてきながら謝罪もしない。

それは許されないことだというお叱りをいただきました。

実は島比呂志さんも「患者の権利法をつくる会」のメンバーでした。

 

これを受けて九州弁護士会連合会とともに、その実態調査を行うこととしました。

そのためにまず島さんのお話を伺おうということでした。

はじめて訪れた隔離施設の中で池永さんは私に「憲法裁判をするしかないね。」そう言われました。

ハンセン病問題はこうやって始まりました。

ハンセン病問題は病気や治療の問題ではない。

患者隔離によってもたらされた隔離被害を回復するための、司法であり、政治であり、政策の問題だ。

統治全般にわたる社会変革への課題だ。

その突破口となるものが憲法裁判だという指摘でした。

 

「緊急出版!らい予防法の廃止を考える」1996年刊―池永満「編集後記」より抜粋します。

 

昨年(1995年)11月7日、私たちは緊張の中で鹿児島の星塚敬愛園を訪問した。九弁連への申立人である島比呂志さんと面談するとともに施設見学を行い、今後の調査方針を検討するためであったが、そこには思いがけず川邉さんをはじめとする患者自治会の役員の皆さんが待機されておられた。弁護士や弁護士会の方と会うのは生まれて初めてですとの歓迎の言葉に、改めて弁護士会としての行動の遅さに恥ずかしさを覚えつつ、一人一人の個人史を聞かせていただき、ただただ胸のつまる思いであった。

今更と拒否されるかもしれないと恐れながら、最後に、弁護士会として全在園者に対する調査を行うことの可否をお尋ねしたところ全面的に協力いただけるという。11月30日引き続き訪れた熊本の菊池恵楓園では、由布園長や患者自治会の役員の方達をはじめさらに多くの在園者や関係者からお話を伺うことができ、弁護士会の調査についても同様の対応をいただける見通しとなった。その他の各園にも調査委員がそれぞれ出向いて協力を依頼した。こうして九州五国立療養所の全在園者に対するアンケート調査が可能となった。 

 

池永さんに導かれて私は九州弁護士会連合会調査―九州五療養所全在園者アンケート調査とその結果報告を兼ねたシンポジュームに参加しました。

このアンケートはたずねあてることのできる隔離被害のすべてを掬いあげるものとなりました。

短期間のうちにこれほど克明に隔離被害を調べ上げた調査は他にはないと思います。

とりわけ自由記載欄には330人にのぼる人々の血を流し続ける隔離被害がつづられました。

私たちはそれを「在園者は訴える」として編集しました。

この調査が後の「らい予防法」違憲国家賠償訴訟の礎となりました。

 

その後池永さんはイギリスに遊学し、帰国後は医療オンブズマン制度の立ち上げと運営に邁進されました。

私は薬害HIV訴訟、「らい予防法」違憲国家賠償訴訟、薬害肝炎訴訟に参加しました。

これらの裁判では、被害者とともに司法判断を梃子とする社会変革を求めてきました。

もちろん個別の医療訴訟によって、過ちの臨床現場から医療システムの改善を訴えてもきました。

 

池永さんは私が弁護士となって医療における人権課題に突き進む始まりを作り、その道を示してくれました。

私は池永さんの哲理にふれ尊敬し仰ぎ見ながら、弁護士としての道をたどってきました。

それは私の弁護活動の随所において「人間性のひかりを照らす」灯となりました。

 

私の心からの感謝とともに追悼の言葉といたします。


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