神美知宏さん―振舞いに端正を極めた人

 

追悼 神美知宏さん=振舞いに端正を極めた人

2014年12月6日に郷里である豊前市において5月9日に逝去された神美知宏さんの偲ぶ会を開催します。

この偲ぶ会によせた追悼文を掲載します。

 

お会いした方々はみなさんLadyでありGentleman です。

ハンセン病療養所入所回復者の方々。

かつてハンセン病を理由とした国の誤った患者隔離政策によって人生被害を余儀なくされ、今、そこから回復された人たちのことです。

この国でもっとも高い地位にありその地位にふさわしい装いをほどこした誰よりも、高貴な淑女と紳士です。

親しくつきあった人は例外なくそう思うでしょう。

そのなかでもひときわ目立って紳士然とした人が神美知宏さんでした。

 

はじめて会話を交わしたのが平成7年10月初旬のことでした。

全国国立ハンセン病療養所患者協議会(全患協)事務局へ電話をした私に丁寧な応対をされました。

いま頃になってなんだという気持ちがあったと思います。

日本弁護士連合会の人権委員会が調査に手を煩わせながらいつまでも結論をださない。

まるで国の対応をただ黙ってまっているかのような姿勢。

弁護士・弁護士会として無責任と評価せざるを得ない時期でした。

 

「なんどもお手数をおかけしてすみません。このたび島比呂志さんの求めもあってあらためて調査をさせていただきます。」

「九州弁護士会連合会であらためて調査をされるのですね。日本弁護士連合会の調査とは別に。日本弁護士連合会の方にはすでに資料をお送りし、聞き取りにも来られました。そうですか。分かりました。それでは九州弁護士会連合会に資料を提供させていただきます。」

「ありがとうございます。よろしくお願いします。」

「国が最終結論をだすまでそんなに時間がありませんよ。早くされないと無駄なことになりますよ。」

「わかりました。いそぎます。」

「福岡市の八尋さんの事務所に送ればよろしいですか。」

 

そんなやり取りをしたと思います。

数日後事務所に資料が送られてきました。

前文とあとがきの間に整然と

「1 全患協運動史 2 痛みのなかの告訴 3 わたしはこう思う 4 らい予防法に関する各界の見解 以上4点寄贈させていただきますのでお納め下さい。」

全患協事務局長神崎正男名で記されていました。

 

後に知るのですが、神崎正男というのは神美知宏さんの園名で、翌年4月らい予防法廃止法が制定された折に本名に戻され、以後使われなくなった名前です。

 

神さんが選んでくれた4冊の本はいずれも私の気持ちを引き締めてくれました。

 

「全患協運動史」は患者運動だけではなく、患者隔離のありかた、患者の生活史、悲しみ苦しみに底のない隔離被害の全容が時代とともに綴られていました。

 

「痛みのなかの告訴」は敗戦後すぐの時代に編纂された冊子でした。

ここではひとりひとりが痛みの体験から立ち上がりひとりひとりが正義を求めて訴える。

そんな姿が克明に記録されていました。

 

「わたしはこう思う。」は、平成7年という時代、ハンセン病政策の大転換期をむかえて述べられた意見を集約したものでした。

のちにらい予防法国家賠償訴訟の原告となる方々が名前を並べられておられました。

「患者隔離政策は憲法違反だった。国賠訴訟を提起せざるを得ない。」

「らい予防法の廃止だけではなく、謝罪と名誉の回復が絶対に必要だ。」

「予防法廃止後の生活保障を万全にせよ。」

と様々な意見が掲載されていました。

 

そして「らい予防法に関する各界の見解」として、各界からもお詫びと労いと生活保障の必要性について言葉が並べられていました。

 

この「らい予防法に関する各界の見解」の各界には弁護士・弁護士会を含む法曹界の名前はありませんでした。

人間の基本的人権を擁護するべき責務を負った憲法上の機関である最高裁判所も日本弁護士連合会も法務省も。

私たちの国が犯した最大規模の人権侵害事例について、それを守るべきであった法曹界が、一言のお詫びも反省も謝罪も再発防止の約束もしていませんでした。

 

その法曹であり弁護士の端くれの私がいわばこの期に及んでのこのこと電話をしてきたわけですから、神さんは相当に腹を立てたことでしょう。

にもかかわらず、私の資料要求に淡々と応じていただきました。

 

これものちに知ったのですが、神さんは福岡県出身でしたし、島比呂志さんは大島青松園でかつて神さんと同じ療養所におられた著名な方でした。

そこに福岡県から私が島比呂志さんの名前を口にしながら電話してきた。

そんな縁もあってしぶしぶ私の求めに応じていただけたのだと思います。

 

翌年3月16日、私たちは「らい予防法廃止に関する理事長声明」及び「九州弁護士会連合会のらい防法・同廃止法に関する見解と提案」を「九州・沖縄五国立療養所全在園者に対する調査報告書―在園者は訴える330名の声」とともに発表しました。

 

このような迅速で大規模な調査を実施し提言をまとめるについても、神さんから冷静で過不足のない助言をいただきました。

 

「今頃からアンケート調査をして間に合いますか。アンケート調査が入所者を傷つけることがあります。項目や聴き方に注意を払ってください。自治会には何度でも足を運んで納得するまで説明してください。全患協としては自治会の判断にまかせてあります。」

 

「わかりました。入所者の方々の心情に十分に気を付けて回収と集約を速やかに行いますのでよろしくお願いします。」

 

私たち九州弁護士会連合会の活動と提言は一定の評価を受けることができました。

それから2年間、私たちは九州にある各ハンセン病療養所をまわって、無料出張法律相談を実施しました。

 

いろんな法律相談があるだろうと思って出向くと、ほとんどの相談は、国が犯した間違いを正したいという内容でした。

この方々の訴えを聞きながら、被害を知った弁護士の責任として国賠訴訟提起へとつながりました。

 

国賠訴訟は平成10年8月でした。

大げさに言えば世界が注目しました。

ハンセン病の問題は人類の歴史にかかわる世界的な課題です。

それを国家賠償という形で当否を問う裁判は世界でもはじめてのことでした。

 

そんななかで神さんはあくまで距離を置いてきました。

入所者の意見が割れていたからです。

曽我野さんが立ち、谺が東京訴訟を提起し、瀬戸内訴訟へと広がった裁判にも、常に距離を置いて対応されていました。

もちろん弁護団と密な連絡を欠かすことはありませんでしたが、公の多くの人が集まるところでは「裁判には重大な関心をもって見守る」そういう態度で一貫していました。

 

神さんは振舞いに端正を極める人でした。

端正な振舞いを鎧のように身につけていました。

その鎧のなかで誰よりも熱くこまやかな血と息吹と哲学を宿し育てていました。

そんな神さんがはからずも油断し生身の人となりをさらけだすときがありました。

曽我野一美さんのことを話すとき。

とくに曽我野さんの陰口をえみをふくみながらくちにされるときです。

 

「自分はさっさと引っ込んでおいて私には最後の最後までちゃんと面倒を見てこいって言うんだよね。ほんと勝手でしょ。」

神さん、曽我野さんに叱られていませんか。

こんなに早くこっちに来るやつがあるか。

もういっぺんあっちにもどって全療協の仕事をやり遂げてこいと。

 

神さん、曽我野さんのお世話を頼みます。


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