金田誠一さん―いつも清爽とした笑顔を贈る人
金田誠一さん―いつも清爽とした笑顔を贈る人
私たちが熊本地方裁判所に「らい予防法」国家賠償訴訟を提起したのは1998年7月31日です。
この問題で、最初に国会議員団を派遣してくれたのが民主党でした。
民主党議員団は、隔離の地、ハンセン病療養所を訪ね、その場所で原告と弁護団の話を聞くことから始めました。
私の記憶では、まず熊本菊池恵楓園そして鹿児島星塚敬愛園の順だったと思います。
訴訟を提起してまだ浅い時期でした。
私たちの提訴を「訴訟に名を借りた社会運動にすぎない。」などと揶揄する声も聞こえていたころでした。
そんなとき、当時第2党の民主党が正式に視察団を組んでくれたことが、私たちにかけがえのない勇気を与えてくれました。
星塚敬愛園では宿泊してくれました。
この民主党議員団を手引きしたのは当時1年生議員だった民主党国会議員川内博史さん。川内さんの案内で、菅直人民主党代表を筆頭に、江田五月さん、加藤公一さん、そして、当時のネクスト厚生大臣だった金田誠一さんが参加されました。
訴訟を提起した原告は数にしてわずか。
原告たちは、「らい予防法」によって、幼少のときからハンセン病療養所に隔離されてきました。それでもなお、長いあいだ隔離されてきたこの場所で生き抜くしか、道はありません。生き抜いていかなければならないその隔離の場所から、これを管理する国を相手に提訴したのです。施設関係者からも、同じ入所者からも、冷たい仕打ちを受けることのある日々。原告たちは、つらくて、こころぼそい気持ちでいっぱいでした。
その原告たちに、会い、話を聞き、勇気づけ、あなたたちのしていることは正しいと伝えるために、金田さんたちは来てくれました。
数名の原告と弁護団で、らい療養所における隔離の歴史を説明しました。納骨堂に献花をし、旧火葬場、合同葬儀場、杉垣の塀、塀に代わる茨の堀、各宗教施設等を見回った後、原告たちの話を聞いていただきました。
なぜ今、提訴したか。
どのようにして隔離されたか。
隔離のなかでの生活はどのようなものであったか。
どんな悲しみがどんな苦しみとともに続いているか。
いま人生を振り返ってどのように思うか。
そして何を望むか。
そんな尋ねにくい聞き取りのはじめから、みんなもう涙がこらえられなくなっていました。
金田さんも、眼に熱いものを浮かべながら、それでも笑顔が途絶えませんでした。穏やかでやさしい笑顔。苦しいときも悲しいときも、いつのときも、きれいな笑顔を見せる人だなあと、感じ入りました。
その後、国会議員団と原告団との裸の付き合いがはじまりました。原告と一緒に、園の風呂に入り、背中を流し合って、ハンセン病問題の最終解決を約束しました。
夜も更けて酔いも回ったころ、こんな話を交わしたことを覚えています。
「しかし、日本の裁判は遅すぎますね。判決まで何年もかけて、そのうえ控訴ですからね。10年なんてすぐ過ぎてしまう。皆さんご高齢なので、弁護団はもっともっとスピードアップして早く解決しないといけない。」(議員団)
「弁護団は3年解決を目指しています。それより民主党が早く政権をとって自分の責任でさっさと解決する方がいいのではないですか。」(弁護団)
「うーん、それはそうだけど・・・」(議員団)
「じゃあ、賭けましょう。民主党が政権をとるのと、この裁判で勝つのと、どちらが早いか、ねっ。」(弁護団)
2001年5月11日熊本地裁勝訴判決。
私たちはこの勝訴判決を受けて、国に控訴させない運動を繰り広げていました。
判決は日本国憲法史上類例を見ない画期的な判決でした。何としてでも控訴すべきだ、という声が国の方から多く聞こえてきました。
私たちは、判決直後、控訴阻止の方針を決め、その戦略として、控訴期間中に、原告を飛躍的に増やすこと、国会審議で徹底的に責任を追及することを確認しました。
判決は国会の立法不作為を違法としました。歴代の厚生大臣とともに国会議員が怠慢によって違法な行為をして傷つけてきた。だから国に責任があると言渡しました。
そうであれば、国会議員みずからが、そして国会が控訴しないと決めれば、行政が何と言おうと控訴できない。そういう控訴阻止の道筋があるのではないかと考えたのです。
金田さんは、国会議員として多くの差別問題に関与されていました。国会質問の数も種類も多く、論戦は得意。いわば経験と能力に勢いのある議員のひとりでした。
控訴期限は判決から2週間。そのうち土日が2回。週日で動けるのは10日間。
厚生労働委員会は17日から。
私たちは、5月14日に坂口厚生労働大臣、17日に森山法務大臣に面談しました。
すでに野党各党は判決直後から控訴反対を決めていました。14日には与野党を合わせた100名を超える国会議員が控訴反対の決断をし、16日には与党公明党も控訴反対を表明しました。
にもかかわらず、マスコミは「国控訴へ」「国明日控訴」と繰り返し報道しました。
5月18日金曜日、衆議院厚生労働委員会で、この問題の実質審議が始まりました。
その先頭に立ったのが金田さん。
金田さんはこの国会質疑で、坂口大臣の決意を明らかにしました。
国はこの判決に対して控訴すべきではないこと。
すべての被害者が平等に被害回復を受けられるべきこと。
これらの考えを小泉総理へ直言して控訴断念の判断を求めること。
もし受け入れられないときには大臣として責任をとること。
金田さんのしつこい質問に、坂口大臣はつよい決意を胸に秘めていると、何度も繰り返さざるを得ませんでした。
そして週明けの21日、判決のとき約700名だった原告は約2000名にまで達しました。
国は4日後の5月25日控訴断念を決めました。
金田さんには、その後もハンセン病問題の解決のために、そして、薬害肝炎訴訟解決のために、引き続きご尽力いただきました。
2006年1月、脳梗塞を患われ、四肢を不自由にされました。
厳しいリハビリを乗り越え、車いすであらゆる差別に抗して活躍される姿を拝見しました。
そして、苦しいときも、悲しいときも、いつのときも。
あのかわらぬ清爽とした笑顔をすべての人に贈られていました。
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