薬害肝炎訴訟

私は薬害HIV訴訟をお手伝いさせていただきました。1995年9月いわゆるハンセン病問題にかかわり始めた時期に重なります。1984年にピークを迎えた患者の権利宣言運動のころからご指導いただいた東京の医療問題弁護団の鈴木利廣、安原幸彦両弁護士、そして大分の徳田靖之弁護士らが薬害HIV訴訟を担っていました。薬害HIV 訴訟は1996年3月には解決の筋道が整いました。被害者全員の救済と薬害防止に向けた取り組みは2000年をまたいでなお継続しました。

薬害肝炎の問題は薬害HIVとともに当時から解決すべき重要課題でした。私はこの問題に2004年からかかわり、提訴準備を経て薬害肝炎訴訟の初めから参加することができました。九州訴訟弁護団は浦田秀徳弁護士を弁護団長、古賀克重弁護士を事務局長とし、私は弁護団共同代表となりました。

それでは事件を見てみましょう。

この事件は、薬害肝炎の被害者が原告となり、国と製薬会社3社を被告としたものです。フィブリノゲン製剤と非加熱第Ⅸ因子製剤の投与によりC型肝炎に感染したとことを理由にした損害賠償請求。全国あわせて5つの裁判所に提訴しました。大阪地裁は2006年6月、福岡地裁は同年8月、それぞれフィブリノゲン製剤について国と製薬会社の責任を一部認める判決を言渡しました。東京地裁は翌2007年3月、フィブリノゲン製剤について国と製薬会社、第Ⅸ因子製剤について製薬会社の責任をそれぞれ一部認めました。名古屋地裁は同年7月、フィブリノゲン製剤、第Ⅸ因子製剤ともに1976年以降の国と製薬会社の責任を認めました。仙台地裁は同年9月、国の責任をすべて否定しました。

このようなばらつきのある司法判断を踏まえながらも、原告団は投与時期による線引きなしの全員救済を求め続けました。厚生労働省、政府、政治への要請行動や街頭支援署名活動など大規模な運動を展開しました。

その結果政権与党は原告団の要求を受け入れました。当時の内閣総理大臣は福田康夫自民党総裁でした。与党は自民党公明党の連立政権でした。福田総理は同年12月25日政権与党である自民党総裁として、被害者全員を救済する議員立法制定を政権与党に指示しました。翌年1月議員立法で救済法を制定しました。予算関連法案をこのような短期間において策定した例を、私はハンセン病補償法以外には知りません。その後も議員立法によって2009年12月肝炎対策基本法を制定し、薬害を含む肝炎問題解決への道筋をつけました。

薬害は薬の副作用の問題ではありません。薬の安全性と被害の発生及び拡大防止、被害回復にかかわる社会システムの問題です。人の健康や命を守るために薬は必要不可欠です。その薬には必ずといっていいほどに、重大な副作用がつきまといます。その副作用も含めて薬には予知した害だけではなく予知しなかった害、予知できたが対策を講じなかった害が生じます。害は小さいものもあれば途方もなく大きなものもあります。それがもたらす被害は人間の命と健康に直結します。すべての国民が例外なく潜在的な被害者です。ですから被害の回避と拡大の防止、被害回復と再発防止。そのためのシステムをどのように構築するか。それは社会統治の全体にかかわる問題です。

このような薬害防止の機構作りを、製薬会社まかせ、厚生労働省の担当課まかせでできるでしょうか。薬害の探知、検証と回復の実践なしに薬害防止のための有効な手立ては作れません。まずもってこの段階で利害の衝突がはじまります。製薬会社と担当課はいわば薬を作り、それを安全であるとして流通させる側に位置します。そこに薬害の探知、検証、被害回復を任せてうまくゆくはずがないでしょう。

製薬事業は世界的な規模で拡大し続けています。ですから薬害情報は世界中から集めなければなりません。世界中から情報を集めるには同じように同質で多様な情報発信ができる機構を備えなければならないでしょう。そうでなければ相互の円滑な情報流通は望めないからです。そのためには世界標準の薬害情報収集システムを構築する必要があります。

ですから私たちは、製薬会社や担当課から独立した、迅速で機能的な薬害情報の収集、分析、評価、監視、是正、検証を継続的に実施できる、薬害監視システムの構築を求めています。薬害HIV訴訟、薬害肝炎訴訟の解決を踏まえた、実効性のある薬害防止システムを作りたいですね。


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