福岡事件

私は1997年ころから8年にかけて、故古川泰龍師から福岡事件の再審請求をしてほしいと申し出を受けました。この時期は大崎再審請求そしてハンセン病国賠訴訟の提訴が重なりました。

古川さんは初対面の時、私に「シュバイツアー寺」という名刺を出されました。正直なところはじめ奇異に感じました。シュバイツアー博士の「生命への畏敬」という考えに共感され、博士の遺髪を祀ってお寺を建てた。そういうお話しでした。その身が醸し出す雰囲気。いまでいうオーラとでもいうのでしょうか。立ち居振る舞いから言葉の真摯さに「立派な方だな」と感じ入りました。ただハンセン病国賠訴訟が一段落しないと準備に入れません。古川さんは「それで結構です」といわれました。

古川さんはこの事件の死刑囚Nさんの雪冤と救命活動に命がけで奔走されてこられました。古川さんは小さな子らとともに一家をあげて担ってこられました。1975年にNさんは処刑。そのとき共犯とされたIさんは恩赦で無期懲役に減刑されました。Nさん処刑後も誤判を訴え、仮出所されたIさんの生活支援を家族で続けられました。

この事件で冤罪死刑囚とされたNさんは、獄中で写経と仏画に精進します。1958年にその写経と仏画を梵鐘にかえて星塚敬愛園に寄贈されました。星塚敬愛園は鹿児島県鹿屋市にある国立のハンセン病療養所です。古川さんのお誘いを受けてこの福岡事件に参加したのには冤罪死刑囚Nさんとこの星塚敬愛園入所者との縁、古川さんとNさんおよびハンセン病療養所との縁、私と古川さんそしてハンセン病療養所との縁があったからです。Nさんは冤罪死刑囚として獄中にありながら、ハンセン病療養所入所者の方々のお気持ちをすこしでも鎮めるために、この梵鐘を贈りました。ともに国によって終生隔離され逢うことのかなわない冤罪死刑囚とハンセン病療養所入所者。ともにその不条理を嘆き叫び続けたNさんと星塚敬愛園入所者の方々とが、命の叫びをかよわせておられました。わたしたちのまったく目の届かないところで。

私はハンセン病療養所星塚敬愛園に行きNさんが寄贈した梵鐘に手を合わせながら、ハンセン病問題の解決とこの事件の再審請求を準備しました。

1999年に福岡事件再審弁護団を結成しました。事件の確定記録の整理や新証拠の発見および収集にあたりました。膨大な刑事記録はその殆どが手書きによる行書とも草書とも思われる書字でした。読み取りですら困難です。事件からすでに半世紀を経ており、当時の関係者は故人あるいは消息不明でした。新証拠収集の壁はとても厚いと感じました。被害者のご遺族にお会いして再審請求についてご説明しご理解いただけたことが幸いでした。

2005年5月23日、福岡地裁に再審請求書を提出しました。請求人は当初Nさんのご遺族、Iさん、共犯者とされたFさんの3名でした。請求手続中に請求人の方々は次々に亡くなられました。Fさんのご遺族が受け継がれましたが、NさんとIさんの再審請求は請求人死亡により終了してしまいました。

新証拠はIさんらの新供述(ビデオテープ)および内田博文教授、浜田寿美男教授の鑑定意見書でした。新供述としてあらためてIさんに事件の真相、調書の作成状況、拷問等について具体的に話をしていただきました。内田教授には刑事訴訟法の研究者として、この裁判手続及び審理の実質が憲法に違反することを明らかにしていただきました。浜田教授には供述心理分析の立場から、有罪証拠の核とされた関係者らの「自白供述」を精密かつ客観的に分析し、信用できないことを論証していただきました。

2009年3月31日再審請求は棄却されました。特別抗告をいたしましたが同年11月24日に棄却されました。

映画「デッドマンウォーキング」の原作者であるシスター・へレン・プレジャンをはじめ、国内外の死刑廃止を願う著名な芸術家、研究者、学生などの方々を中心にご支援をいただいています。

古川泰龍著「真相究明書 9千万人のなかの孤独」(花伝社)、内田博文編ブックレット「冤罪・福岡事件」(現代人文社)などの書籍があります。

それでは事件を見てみましょう。

この事件は1947年5月20日福岡市で発生した殺人事件にかかわる冤罪事件です。

終戦直後の混乱期にあった昭和22年5月20日夜のことです。福岡市堅粕の鹿児島本線鉄線路脇空き地で、日本人1名と華僑の重鎮1名が射殺されました。ご遺体に現金約5430円(当時の国会議員の月給は3500円)や金側懐中時計などの金品は残されたままでした。

捜査機関は軍服取引をめぐる強盗殺人であり、実行犯及び首謀者を含む7名を強盗殺人の容疑で順次逮捕して自白を追及しました。実行犯とされたのがIさん、首謀者とされたのがNさん。しかしNさんとIさんとはこの日の昼間に会ったばかりの初対面でした。Iさんは抗争中の相手方が拳銃で撃とうとしてきたと誤解してとっさに被害者の二人を誤殺してしまった。Nさんは殺害の指示も何もしていない。被害者の一人となった軍服取引の買主の依頼を受けて売買交渉に立ち会っていただけだといいます。

取調べは熾烈を極めました。否認を続けたNさんは、逆さ吊りで頭を水に沈められるなど、激しい拷問を受け続けたといいます。Iさんは角材を膝裏に挟ませられて正座を強いられ上から踏みつけられた。その他の者はNが受けている拷問を見せられ、「Nを首謀者にしなければお前が死刑になる」などとの脅迫を受けたとしています。

はじめ関係者すべては事実を否認しましたが、Nを除き、次々にNが強盗殺人を首謀したとの自白調書を作られました。この自白供述によって新たに得られた証拠も明らかにされた事実も、何もありませんでした。

1947年6月8日NさんとIさんを含む7名は、福岡地方裁判所に強盗殺人等で起訴されます。日本国憲法が施行された後でしたが審理は旧刑事訴訟法―応急措置法に基づいてなされました。被告人全員が強盗殺人を共謀したことについて否認しました。しかし裁判官は有罪と決めつけた訴訟指揮を行いました。被告人本人らへは捜査段階での自白供述を形式的に認めさせる尋問に終始しました。弁護人は有罪を前提した弁護活動の域をでませんでした。

1948年2月27日NさんとIさんは死刑、その他の共犯者は懲役3年~15年の刑を宣告されました。

新刑訴法施行後に控訴審の審理が開始しました。しかし刑訴法施行法2条の特例により旧法を適用し、新法は適用しませんでした。控訴審判決は1951年4月30日共犯者のうち1名について無罪もう1名について刑の減軽をしましたが、NさんIさんについて死刑判決を維持しました。

NさんIさんは上告しましたが、1956年4月17日上告棄却となり、死刑判決が確定しました。

NさんとIさんの宗教教誨師となった故古川泰龍師は、死刑囚である彼らの訴えに耳を傾けました。心をも動かされ彼らの訴えの方が正しいと信じます。記録を集めて整理し、現場を何回も歩き、NさんとIさんへの死刑判決が誤判であることを確信します。冤罪死刑囚の命を救おうと、NさんIさんの救援活動を開始しました。大きな雪冤運動を展開し、5度にわたる再審請求を行い、さらには恩赦による助命を求めました。

いずれの再審請求も「白鳥決定」(1975年5月20日最高裁決定)以前の時期に棄却されました。「白鳥決定」から約4週間後の1975年6月17日Nさんは死刑を執行され、Iさんは恩赦によって無期懲役に減刑されました。Iさんはその後仮釈放を受け、古川さんのもとで「N君はなんもやっとらん」と再審請求を行いました。そのIさんも2008年11月7日亡くなられました。

裁判というものは過去の事実を今ある証拠によって認定します。集められた証拠が事実を認定するために必要な証拠のすべてではありません。証拠の収集が不十分であり、歪められていれば認定を誤ります。当然のことです。検察官がどれほど真摯に公判を追行した。弁護人が高い識見と経験をもって有効な弁護に終始した。そのうえで裁判官が健全な経験則と精緻な論理をもって判決した。そうであっても証拠の収集と提出に問題があれば事実の認定は誤るでしょう。判決というのはどのように完璧になされたとしても、その時点においてたてられた仮説のひとつにすぎません。いうなればその時点において最も確からしい仮説です。その確かさは、新しく証拠が収集され、埋もれていた証拠が見いだされ、新しい科学的知見によって証拠の評価が変わり、証拠全体が再評価されることによって、否定されることのある確かさです。

そのうえ裁判を担うのは生身の人間です。いつの時も万全であるというわけにはいきません。見逃しや判断の誤りはいつもつきまとっています。判決が最も確からしいとはいえない仮説にとどまることもあります。

私はこれらのことを厳粛に受け止めます。ですから私はえん罪が在るものだとして探します。そうすることが私たちの裁判の質を上げ、司法への信頼と権威そして独立を守る最も有効な方策だと思います。

裁判があればえん罪は必ず在るものです。えん罪は法曹みずからが率先して探し求め発見し是正し続けるべきもの。ましてやえん罪死刑だけはないものとして、その訴えに目や耳を閉ざすことはできません。


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