坂口力さん=弱い人に身を折ることのできる人
坂口力厚生労働大臣にお会いしたのは2001年5月14日午後5時30分過ぎ。
大臣控室で案内を待ちました。同省健康局長も同席。
判決後まもなく野中広務さんにこの面談をセットしていただきました。
「らい予防法」違憲国家賠償訴訟の勝訴判決は5月11日金曜日午前10時。
私たちはその日の昼過ぎには厚生労働省前に着いていました。
熊本で判決を聞き短時間のうちに会見を済ませてそのまま上京。
翌12日土曜日は全国弁護団会議で控訴期限である14日間にわたる闘いの目標と方向を確認しました。
翌々13日日曜日は全国原告・弁護団会議でさらに具体的な道筋を決めました。
「われわれは控訴せず。国を控訴断念に追い込む」という方針です。
そうやって迎えた14日月曜日が坂口大臣との面談でした。
「坂口さんはまず謝罪されるだろう。」
新聞各社の記事と多方面からの情報でそう判断しました。
だが国はいわゆる「控訴後和解の方針」でくるはず。
国が敗訴した時には多かれ少なかれ「控訴は忍びない。国は非を認めたらどうか」そう言った声があがる。
これに配慮したかっこうで国は控訴して和解協議に入り早期に解決するという方針を打ちだします。
しかし実際は控訴して徹底的に争うことになる。
それが国の控訴するための「控訴後和解の方針」です。
「坂口さんはまず謝罪される。だが時間がないので控訴はさせていただき控訴直後から和解に向けて全力を尽くし早期解決を目指したい。そういわれるかもしれない」
原告にとって大臣の謝罪はとても重い。
しかも坂口大臣は人気があった。
それぞれが誠実な人柄と事実の受け止めや歴史への認識の深さを感じていました。
原告団が坂口大臣の謝罪を受けてしまうとやっかいだなと思いました。
原告団はそのあと坂口大臣の気持ちにそう運動しかできなくなる。
そういうリスクを予想したからです。
この裁判の結審直後、この年の1月のことです。
のちに紹介する大谷藤郎さんが坂口大臣に会われています。
大谷さんは「らい予防法廃止の歴史」を携えて坂口大臣にハンセン病問題をじかに説明された。
そううかがっていました。
大谷さんが著したこの本には私たちの国のハンセン病に対する法律と政策の誤りが整然と記述されています。
坂口大臣はこの問題の本質を理解されていると確信してはいました。
「坂口大臣はわれわれを裏切ることはない。」
「だからと言って国に方針を変えさせることができるか。ことはそう簡単ではない。」
これがわれわれのこのときの情勢把握でした。
「曽我野さん、坂口大臣は面談の冒頭にたぶん謝罪を口にされる。そのときにこれをさえぎって『大臣、控訴断念なくして謝罪は受けられない』と返していただけませんか。」
大臣面談の小一時間前からの打ち合わせで原告団代表の曽我野一美さんにそうお願いしました。
「いやそれはできない。大臣が心から謝罪されるのをうけられないというのは非礼にすぎる。やっていいことではない。」
原告団代表の曽我野一美さんは拒まれました。
なんどか時を置いて話しかけました。
「でも曽我野さん。われわれはなんとしても控訴断念を勝ち取ってこの判決を確定させないといけない。紳士的なやり方だけで国が控訴を断念すると思いますか。今日は青松園からヤクさん、スミさんもきてくれた。敬愛園からはシゲさんも。大臣を説得するために。大臣の謝罪をいただけばそれでよしとするわけにはいかないでしょう。」
「やれないものはやれない。ほかのものに代わってくれ」
曽我野さんはぎりぎりまで承知されませんでした。
ヤクさんというのは男性で国立ハンセン病療養所大島青松園の入所者。
昭和4年に生まれ16歳の時に強制収容されました。
当時72歳でしたからもう56年間大島青松園に隔離収容されていました。
スミさんは女性でおなじく青松園の入所者。
昭和31年、8歳のときに強制収容されて島での生活を強いられました。
当時53歳です。
ハンセン病療養所入所者ではもっとも若い人のひとりです。
シゲさんは国立ハンセン病療養所星塚敬愛園の入所者。
大正7年生まれで19歳の時に強制収容されました。
当時83歳で戦前から療養所の苛酷な処遇を体験してきました。
隔離被害はそれぞれ壮絶でした。
大臣との面談の冒頭で大臣は顔を伏せるようにして謝罪の言葉を述べようとされました。
そのとき間髪を入れず曽我野さんは言いました。
「申し訳ない。大臣、控訴断念なくして謝罪は受けられません。」
一瞬ふたりのなかに光がはなたれました。
坂口大臣はわれわれの意向をすくいとり間をおいて穏やかに座られました。
シゲさん、ヤクさん、スミさんの順で大臣に静かに語りかけました。
三人の話に大臣は身を折るようにして聴き入られました。
シゲさんも、ヤクさんも、スミさんも裁判という場では話すことができなかった自分の被害を話しました。
坂口さんの人柄を感じとり信頼したからこそできた告白です。
「さきほど控訴断念なくして謝罪は受けられないというお話をうけたまわりました。がやはり皆様のお話をうかがい私は厚生労働大臣としてみなさまにご苦労おかけいたしましたことを率直にお詫びしたい」
そう言い、坂口さんは瞳に涙を湛えながら深く頭をさげられました。
それから厚生労働大臣の辞表を胸に坂口さんは国と総理に控訴断念を求め続けました。
人として医師として大臣としての使命であるとの信念をもって。
5月23日午後5時過ぎ、国は控訴断念を決めました。
坂口大臣との面談からちょうど9日目のことです。
坂口さんのとてつもない踏ん張りが国を控訴断念に導いてくれました。
こうして曽我野さん、シゲさん、ヤクさん、スミさん、そして原告とすべてのハンセン病隔離政策の被害者一人ひとりの願いがかなえられました。
坂口さんは血液行政に造詣深い方でもありました。
薬害肝炎訴訟の解決にあたって、大臣として、また、厚生行政にかかわる国会議員として、国とわれわれとの架け橋になっていただきました。
その折の坂口さんの厚生労働大臣時の国会答弁の一部は、金田誠一さんのところで少し紹介いたしました。
出逢った人が立場の弱い人であればあるほどにその身を折りながらその人の役に立とうとされる方。
わたしは坂口さんのことをそのように感じ入りました。
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