与謝野馨さん=動ぜずに考え伝え実現する人
与謝野馨さん=動ぜずに考え伝え実現する人
はじめてお会いするのに旧知の間柄。2007年12月24日午後17時45分ホテルオークラ東京2階桜の間で初対面。
挨拶がわりに「もしかして件の人がかかわられたのでしょうか。」と私。
「おっしゃるとおり。あなたのお友達がわたしに友人として声をかけてくれた。それを受けてわたしから考えを総理に伝え、前の民事局長にはかり、今の民事局長にお願いして素案を得た。これから12月28日までに議員立法案を作り、谷垣さんが責任をもって与党PTの了解を得るという予定です。」と与謝野さん。
お断りしておかなければいけない。件の人はわたしにとって、人としても法曹としても信頼する大先輩。ハンセン病問題の解決にあたり大きな力をいただいた方。わたしが「お友達」と口にできる人ではない。
それをいたずらまじりの笑顔とともに「あなたのお友達の」と言葉を足された与謝野さん。わたしはその親しみある挨拶を心地よく受け入れることができた。
わたしたち薬害肝炎訴訟原告弁護団は9月7日の仙台地裁判決を受けて動揺していた。原告弁護団だけではなかった。与党も厚労・法務も年内解決を見込んで動き始めていた。そのキーパーソンのほとんどがこの判決には驚いた。
大阪、福岡、東京の各地裁判決は、線引きあるものの国と企業の法的責任を認めた。名古屋地裁判決は線引きなしで国と企業の法的責任を認めた。ところが仙台地裁判決は国の責任を全否定したからだ。
原告弁護団は仙台判決を受けて3日間会議を重ねた。そこで安倍総理のもとで年内解決を目指す方針を再度確認した。10日から原告団は座り込みを始めた。厚生労働省前、日比谷公園の一角に座り込み、舛添厚生労働大臣に向けて1日中メッセージを送り続けた。ところが12日昼すぎ安倍総理は辞任し政権は自壊。原告団は座り込みを解除せざるを得なかった。
その後この国のかじ取りは福田総理に託され、総理は舛添厚生労働大臣を再任した。
9月はおおきく動くことはなかった。ただ薬害肝炎問題について、新任の福田総理は舛添大臣の意向を受けて年内解決の方針だと伝わってきた。わたしたちは年内解決に向けて、与党自民・公明だけではなく、野党民主・共産・社民を含め、党派を超えた働きかけを強めた。
10月に入って事態は大きく動いた。
10月1日与党会合で問題解決のための方針合意に至らなかったものの、2日には自民党谷垣政調会長との面談や野中元幹事長との面談を得て、問題解決の道筋を共有できた。3日に大臣との伝手を得た。ハンセン病問題の解決で力添えをいただいた元法務大臣の尽力があった。10日になり与党PT座長・副座長との非公式三者面談にこぎつけた。
この三者面談では年内解決に向け誠実に腹を割って意見交換することを約束した。
13日以降、わたしたちは「418命のリスト」問題を連日取り上げた。
「418命のリスト」とは、ミドリ十字を引き継いだ三菱ウェルファーマーが保有したリスト。フィブリノゲン製剤を投与してC型肝炎に感染させた個々人の症例情報418名分を整理した一覧表のことである。
C型肝炎は放置すればやがて肝硬変・肝がんになってほぼ確実に死に至る感染症である。しかも肝炎から肝硬変・肝がんになってもまだ自覚しにくい病気でもある。
患者は感染させられたことを知らない。病気がときとともに増悪していっても気がつかない。三菱ウェルファーマーはリストの感染患者に感染の事実を知らせなかった。知らせれば受けられたであろうC型肝炎に有効で必要不可欠な治療を、知らされなかったがために患者は受けることができなかった。症状が重篤化して病院へ行ったときにはもう手遅れ。感染経路不明の肝硬変・肝がんとして余命告知を受け、あるいはそれさえも知らされぬまま死亡した人もいた。
このリストは2002年に三菱ウェルファーマー社から厚生労働省へ提供されていた。国もまた感染事実を患者に知らせなかったし、三菱ウェルファーマー社に知らせるよう命じもしなかった。放置すれば死に至るC型肝炎に感染させた。その感染させた事実の不告知は殺人にも匹敵するものだ。わたしたちはその責任を問うた。
10月16日から参議院予算委員会で「418命のリスト」問題の追及が始まった。野党議員が連日舛添大臣の答弁を求めた。なぜか厚生労働省の担当者は舛添大臣に、リストには感染患者を特定できる情報は含まれていなかったと事実とは異なる説明をしていた。舛添大臣は予算委員会でこの説明のまま間違った答弁をして紛糾した。
その直後の厚労省担当者会議の終わり頃、一人の担当者がこのリストを厚生労働省地下倉庫で見つけたとして会議に持ち込んだ。それが舛添大臣に提示された。
リストには連絡先が分かる患者個人の情報が記載されていた。
大臣はリスト発見の経過を説明し謝罪し、第3者調査検討会の立ち上げを約束した。
この「418命のリスト」問題は原告弁護団への追い風となった。
大臣と非公式に面談する機会を得たのが10月25日。まさに「418命のリスト」問題が吹き荒れていた。元法務大臣も同席されたその席で、解決のための大きな枠組みを示した。
①国は、製造承認時の不十分なチェック、製剤見直しの遅れ、リスト問題に象徴される被害拡大にかかる不作為等の法的責任を踏まえて謝罪する
②被害回復措置は、線引きなしで被害に相応させて平準化する
③検証と再発防止に努める
との3本柱を立て年内解決を図るというものだった。
三者は引き続き早期全面解決を実現する方向で情報を分かち合うことを約束した。
その甲斐あってか10月26日から28日までは、厚生労働も法務も線引き越えを前向きに検討しはじめた。それなりの政府決断がなされる風向きを感じた。
しかし、29日官邸は「国も企業も線引きは越えられない。しかし結果として全員救済できる案」でどうかと打診してきた。
原告弁護団は線引きを越えない案は100%受けられないと返事した。
ここでいう線引きとはなにか。法的責任の線引き。血液製剤によってC型肝炎に感染した薬害肝炎被害者を、投与の時期や製剤の種類によって、法的責任のあるなしを線引きすることである。
たしかに、製剤承認時の不十分なチェックや製剤見直しの遅れという責任の枠組みでは、投与の時期や製剤の種類によって、法的責任のあるなしが問われることになるだろう。
しかし、国も企業も、血液製剤によってC型肝炎に感染させたことを知りながら、感染事実を知らせず、隠し続け、放置してきた。「418命のリスト」問題に象徴される不作為による被害拡大という加害行為である。そのため感染者の多くは、無症候から慢性肝炎、肝硬変、肝がんへと重篤化させ、死に至らせたものも少なからず発生させた。
人命への加害の事実を知っていながら、国も企業も放置した。国も企業もさながらひき逃げ犯人であり、あるいは上水道に毒を流して頬かむりしている加害者に等しいと訴えた。薬害肝炎被害者は今も、路上で血を流し、病毒に家族とともに苦しみ、死に絶えていく人たちであった。
加害を隠し放置して拡大するにまかせた被害拡大責任について、国も企業も法的責任を逃れることはできない。原告弁護団はそう考えた。投与の時期や製剤の種類をこえて、薬害肝炎被害者のすべてに、国と企業が法的責任を踏まえて、謝罪、名誉回復、検証、再発防止を行うとともに、同等の平準化した同一被害同一補償を行うこと。
このように線引きを越えることを原告弁護団は全面解決のための必須の条件とした。
その後事態は膠着した。
大阪高裁での和解協議は思うように前進しなかった。裁判所も法務省訟務部も、線引き論に縛られていた。10月末から11月末、そして12月に入っても、官邸は線引き越えは無理だと判断した。そのうえで線引き+政治決断いわゆる上乗せ補償で全員救済という案を提示した。10億円の上乗せ、20億円の上乗せと、上乗せ補償額を嵩上げしながら、結果として全員救済を図る、というのが官邸の案であった。
その都度、原告弁護団は、線引き案ではいくら上乗せされても100%受け入れられないと返事した。
12月13日大阪高裁和解所見で「全員一律の救済が望ましい」という一文をどうにかさしこむことができた。これが目いっぱいの司法的対応であった。
この間、毎日のように折衝は続いた。原告弁護団は、国会議員要請、マスコミ対応、地方行脚など多方面で力を尽くした。手ごたえを感じ、勝利はわれらの手にあるという確信をもった。国を動かす力のある多くの議員もこれに参加した。福田総理はハンセン病問題解決のときの官房長官、命の問題にはきっと大胆な判断を示してくれる。舛添大臣の情熱がそれをさらに強力に後押しするだろう。
原告弁護団はそう信じ期待した。
だがそれでも事態は動かなかった。
12月20日午前10時、舛添大臣は年内解決に向けた事実上最後の国の提案として示した。それは東京地裁基準による線引きと、30億円の上乗せ補償という内容だった。線引きと上乗せ補償の嵩上げである。
原告弁護団はその場でこの案を一蹴する拒否会見をした。
この拒否会見は大きくマスコミが取り上げた。この日の昼のニュースではほとんどの局が、原告団のこの拒否会見を流した。正義は原告団にありとする取り上げ方。政府は間違っている。与党はなにをしている。政権はもうもたない。言葉にはしないもののそういった勢いだった・・・らしい。
与謝野さんが動いたのはこのニュースのあとである。
このニュースを見た件の人が与謝野さんに電話をした。「薬害肝炎の問題は早く解決しなければならない。議員立法によって線引きなしの全面一律解決をするしかない。私はニュースを見ていて心が痛む。原告団の方が正しいと思う。国民の多くもそう考えているのではないか。国が国民を見捨ててはならない。国としての誇りを保たなければならない。」と。
与謝野さんはこの忠言に得心した。いそぎこれまでの資料を参考にしながら「特別救済立法(要点)」と題する書面を手書きで作成した。国は薬剤投与によって発生したC型肝炎に対し一律一括の救済措置をとるべきことや救済の内容に言及したものだった。
与謝野さんはそのうえで、内閣官房に薬害肝炎問題全面解決のための総理面談を申し入れた。その日のうちに翌日の総理面談の予定を入れた。
12月21日16時25分からの予定だった総理面談は早められ14時からとなった。与謝野さんは「特別救立法(要点)」に「薬害肝炎訴訟について」という説明文書を添えた。それは今なぜ解決しなければならないかについて1枚に整理し、みずからパソコンで清書した文書であった。
そこでは20日の政府案について「行政府は、法の支配の原則から、司法判断に従わざるを得ず、昨日の案は、行政府としては、ぎりぎりの案である。」と理解を示し「しかしながら、どの時期に投薬を受けたかは被害者の責任ではなく」「被害者らを一刻も早く訴訟の当事者から解放してあげなければならない。」「立法府による特別救済立法しかないと考える。」「党に対し、特別救済立法すべく、その検討を依頼し、かつ各党との協議をお願いしたいと考える。」と結ばれていた。
与謝野さんは、福田総理に総理大臣としてではなく、自民党総裁として理解と仕事を求めた。福田総理は与謝野さんの提案をその場で理解し了承した。総理は総裁として、即刻、官房長官、官房副長官に、さらに法務・厚生労働両事務次官にも、議員立法による薬害肝炎被害者一律救済法案による全面解決方針を示した。
それからの展開の速いこと。
福田総理からあらためて政治的解決への協力を求められた与謝野さんは、その日の16時には法務民事局長、民事法制管理官に連絡した。17時には法務事務次官、訟務部総括審議官、官房審議官らに対して、議員立法に関する検討資料作成への協力を依頼した。引き続き同日21時から23時まで、議員立法策定の要領を自民政調及び法務民事局と調整した。
12月22日にはもう法案の姿ができた。17時までに「C型肝炎被害者補償法案要綱骨子」2案が策定された。ただし、行政認定とするか、司法認定とするかは持ち越した。
12月23日午前中には、与謝野さんは自民政調・法務民事局と引き続き打ち合わせをし、行政認定、司法認定のいずれの方式でも対応できるように準備した。
この日の10時10分だった。わたしはこの議員立法による全面解決の第一報を受けた。
「今日、皇居から帰られて総理が会見します。議員立法で救済法案を提出することを明らかにします。議員立法となるのでこれからは党主導ということになりますが、引き続き解決に全力を尽くします。」との連絡だった。
「そうであるならば総理にできるだけ早い段階、明日24日には原告弁護団を東京に集めて会議を開きます、その翌25日にも、原告団とお会いされて新しい方針について説明されるようご進言ください。」と要望した。
11時40分福田総理は官邸で記者会見した。
「薬害肝炎問題について議員立法により早期に全面解決をしたい。党総裁として、時期による線引きをせず、被害者全員一律の救済をするよう党に指示した。」とすべての局が伝えた。
自民政調、元法務大臣、元厚生労働大臣、公明代表、与党PTなどのキーパーソンに連絡を入れて、引き続き協力をお願いした。
原告弁護団は急遽24日に東京での全国会議をいれるとともに、各地で会見を開いた。「これまでのことがあるので本当に立法されるまで喜べない。」との談話を発表した。
この間も与謝野さんは、自民政調・法務民事局を中心に意見を求め、法案と説明文書さらには原告弁護団にまず確認しておくべき基本的事項のメモを作成した。
12月24日原告弁護団は、午前中は事務局会議、午後は全体会議を行った。そこでこれまでの経過と今後の対応方針を協議した。与謝野さんはこの日も午前中から自民政調・法務民事局等と協議をし、18時からの弁護団との折衝を準備した。
そこで冒頭の初対面となった。
早めに行くと、与謝野さんが一人で座って待っていた。二人だけの時間が少しだけできた。その隙間のやり取りである。
その後18時から弁護団は与謝野さんに自公政調を加えたメンバーと協議した。そこで司法認定による解決方式を含む基本的事項について合意した。
この日以降、基本合意にそって、与謝野さんは自公政調とともに法務民事局等の意見を聞きながら法案の詰めを行った。さらに法務訟務・官房・最高裁などの関連機関と協議を経て法案を整備した。そのうえで与党関係議員への説明了承を得た。
与謝野さんの寸法どおり28日の法案成立となった。
法案は翌年1月8日衆議院で可決、同10日参議院で可決した。
与謝野さんが考え、総理に伝え理解を得て、方針を立てた。協力要請を受けた法曹能吏たちは夜を徹し年末年始を返上して万全の働きを見せた。年明けには清々しい顔を輝かせた。与謝野さんはそれほどに法曹能吏との間で深い信頼関係を培っていた。
こうやって国のひとつの悲劇を回避することができた。年内解決を逃していたら私たちは今でも法廷で争っているかもしれない。そのあいだに多くの薬害肝炎被害者たちが命を落としただろう。肝炎に強いられた苦難の人生を過ごしただろう。国を恨みながら。国はいちど見殺した薬害肝炎被害者を、二度も三度も見殺すことになっただろう。それでは国の信頼も誇りも権威も地に落としめ、政権は求心力を失っていたに違いない。
1月4日ご挨拶に四谷の個人事務所を訪ねた。与謝野さんは油絵のカンバスにむかっていた。好きなたばことコーラを横において。それからちょくちょくお邪魔してアドバイスをいただいた。原告も親しく出入するようになった。与謝野さんは官房長官時代を含めていつも原告弁護団の力となってくれた。
国や政権が瀬戸際のところに立ってぐらつくときに、動ぜずに考え伝え実現して、難題を解決できる人。与謝野さんは多くの政治家が学ぶべき資質と技能とねばりを自覚的にもつ人だ。
のちに「私の信条はねばりです。難しい、不可能だ、誰も理解してくれないような事も『粘り』と『信念』で打開してきました。皆様の健闘を祈念いたします。」そんなエールをいただいた。
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