三井三池有明鉱火災訴訟

私はこの火災事故のテレビニュースを千葉県松戸市馬橋にあった研修所の寮で知りました。テレビの向こうでもこっちでも雪がちらつく寒い日曜日でした。坑口から次々にご遺体を乗せた担架が運びだされる。会社の職員で現場を指揮する担当者が数を数えあげる。「81あと3」と叫んでいます。ご遺体が数字だけで呼ばれていました。その向こうにある奪われたおひとりおひとりの命や人生への畏敬も配慮も示されませんでした。

私は司法修習最後の年、残り2か月半で弁護士になる時期でした。

弁護士登録を済ませ開業しました。同じ4月に三井三池有明鉱火災訴訟弁護団に加入しました。大牟田市は当時三井の企業城下町。その三井を相手に裁判する。被害者家族にとって勇気のいることでした。

私は被災されたご家族を歩き回って、一緒に裁判されませんかとお誘いしました。しかしその壁は厚く高いものでした。なかなか原告を増やすことができませんでした。企業城下町の訴訟に対する圧力は原告が少なければすくないほど強まるばかりです。原告として立ち上がられた方々には肩身の狭い思いをさせてしまいました。

「裁判しなくとも裁判の結果を踏まえて被災者全員に補償します」。会社はそう説明して、被災者家族が訴訟へ立ち上がることを思いとどまらせました。

この裁判で私は集団訴訟の構え方を学びました。弁護団長をされた故松本洋一弁護士はいつも笑顔。馬奈木昭雄弁護士との軽妙な会話が弁護団の若手を惹きつけました。「どんな理由があっても坑道で火をだしたらいかん。坑道で火をだしたことに不可抗力などない。」故松本団長はそう繰り返されました。

裁判では地下に潜って坑道の検証を行いました。私が炭鉱の坑道に入ったのはこれが最初で最後です。炭鉱では地下に何層にも複雑に坑道が張り巡らされています。その坑道ではいつも風が通り抜けるように仕組まれています。そこでひとたび火をだせば、炭塵を伝い風に乗り瞬時に火は廻ります。働く人々は逃げ場を失い、火焔と黒煙にのみこまれ命を落とす。このことを坑道の検証によって実感しました。

原告・支援・弁護団みんなで荒木栄の「がんばろう」を合唱しました。ひとりのときは高田渡の「鉱夫の祈り」をくちずさみつつ、結束して勝訴的解決を得ました。

それでは事件を見てみましょう。

この事件は1984年1月18日、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱有明鉱において発生した坑内火災事故による損害賠請求償訴訟です。この火災によって83人が死亡しました。坑内火災事故としては日本における最後の大規模災害となりました。

火災は旧式のベルトコンベアの整備不良から発火しました。付着堆積していた炭粉に着火して、火焔は一気に坑道を走りました。坑道内で稼動中の坑夫らは、逃げ場を失い、多くは一酸化炭素中毒よって死亡しました。企業が初歩的な安全配慮を怠りつづけた、単純で重大な過失による災害でした。

遺族らは福岡地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提起しました。訴訟は当時としては異例のスピードで審理を進め、企業の責任を認め、集団提訴から3年半で和解解決を得ました。集団被災訴訟における民事的紛争解決のあり方を提示した裁判だと思います。

その後炭鉱は閉山。日本の石炭産業は終焉をむかえました。炭鉱労働者は職を探し求めて、原子力発電所の作業員となった人も少なくありません。エネルギー産業が重要であればあるほど、そこで働く人々の命と人生も重要。災害のあることを前提にした安全対策を徹底する。そのためにもっと多くの利潤を安全対策に振り分け、人身被害を回避しあるいは最小限に抑え込むための方策にこれを当てる。このあまりにも当然のことが守られないままに、今次の原発災害となりました。


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