隔離ではなく絆を
2016年10月29日に金沢で全国精神医療審査会連絡協議会シンポジュームを行いました。
シンポジュームのテーマは「我が国における強制入院の問題点 ~特に措置院制度のありかたについて~」
今年の2月に決定したときには、主として医療保護入院をテーマにする予定でした。
ところが、7月26日に発生した相模原事件を受けて、措置入院制度の問題点をむしろ正面にすえることに変更しました。
シンポジュームのはじめに、そのような説明がなされました。
私は、おおきな懸念をもっています。
相模原事件によって、精神機能や知的、身体的機能に特性をもつあらゆる人々が、さらに生きづらさを増すのではないかとの懸念です。
厚生労働省は相模原事件の再発防止検討会を設置しました。
そのメンバーは精神保健及び精神障害者福祉にかかわる人たちに偏っています。
あたかも厚生労働省は、この手の犯罪を予防する重要な省として振る舞い、その手段として精神保健及び精神障害者福祉を利用しますと宣伝しているようにみえます。
前からやっているように精神科医療福祉の名のもとに、期限も厳格な要件もない患者隔離の法制度を利用して、犯罪を防止する機能を発揮しますよと。
この検討会の立ち上げはそんな誤ったメッセージを公的に標榜してしまうおそれのあるもので、とても賛成できるものではありません。
また、事件予防の観点からしても、筋違いの問題提起に終始し、事件の本質を矮小化し、とるべき有効な手段を10年以上先送りしてしまうだろう。
私はそんなふうに受け止めています。
それはさておき、このシンポジュームで10分間の指定発言の機会をいただきました。
その表題を「隔離ではなく絆を」としました。
発言要旨を載せます。
「隔離ではなく絆を」
昨年,退院することができた依頼人は,2005年28歳から2015年38歳までの10年間,医療保護入院させられていました。
私は2007年末から年に1,2度,彼の退院請求をしてきました。
昨年9月,10回目の退院請求でやっと退院にこぎつけました。
想像していただきたいのですが,20代から30代の10年間,出口のみえない精神病院の閉鎖病棟で過ごさせられたことが,彼の人生にどれだけダメージを与えたか。
退院して,しばらく,生活支援施設に入所していましたが,人間関係をうまく築けません。
彼は大学を卒業していますが,もともと生きづらさをもち,人間関係,社会関係を築きにくい精神機能特性をもっていたのでしょう。
そのうえ10年間の患者隔離です。
退院して,自分の能力をこえる辛抱をしても,地域に居場所を作ることができません。
泣き声のときもあります。
生活の糧が欲しいと叫んでいます。
安易に措置入院させられた依頼人もいます。
彼は,地元の有名高校を卒業し,著名大学に入学しましたが,精神症状に苦しみ,なんどか医療保護入院をしました。
退学を余儀なくされ引きこもりました。
そのころから地域の厄介者とのレッテルが張られ,隣人たちは,母親に再三,医療保護入院させよと圧力をかけていました。
一昨年34歳になりました。
引きこもりの家の中から,隣家に向けて「うるさい,殺すぞ」などと暴言を吐いたとして,複数の警察官が入り込み,そこでトラブルとなって公務執行妨害罪容疑で署に連れて行かれ,措置入院となりました。
私はすぐに退院請求をしました。
2か月足らずで退院できました。
今日まで2年間生活支援施設で頑張ってきましたが,職を得ても続かず,挫折の連続です。
仲間と居場所が欲しいと悲鳴を上げています。
彼には生活支援施設にたどり着くまでの15年間,地域での支援は有効に機能したことがありません。
地域はいつも彼を追い出そうとし続けました。
また,私は措置入院患者が警察官を刺殺した事件の弁護をしました。
彼は,ちいさいころから何をやってもうまくいかず,学校では生徒から暴力を受け,さげすまれ,先生からは叱られるか,ほったらかしにされるばかりでした。
高校卒業後,働き出しても続かず,いくつか職を転々とするうち,仕事のあてを失ってしまいました。
シンナーの吸引や家庭内暴力,器物損壊,反社会的行動などから22歳で措置入院となりました。
事件を起こしたのは28歳のときです。
6年間の措置入院を経てもなお退院の見込みが全く立たず,彼を気遣うものは誰もいませんでした。
IQ60前後,出口のない患者隔離によって,深い孤立と絶望に陥り,死のうとしましたが,怖くてできませんでした。
そこで「死刑になれば死ねる」と考えました。
入院先から警察署に電話を入れ「警察官を殺せば死刑になりますか」と相談しました。
事件の数か月前です。
警察から連絡を受けた病院が施設を出ようとした彼を見つけてとめました。
その年の盆休みの仮退院のその日,いちばん親しくしてくれた警察官を殺害してしまいました。
被疑者面会のとき,幼い顔の彼は,生まれてはじめてこんなに長く人から話を聞いてもらったと頬をほころばせました。
それはほんの30分ほどの初回面会のことでした。
彼らは,地域で生きていくための絆をもちません。
居場所も仲間もありません。
精神の「障害」「症状」という,精神機能特性を持ち続けながら生きてゆく困難を抱えています。
しかし,社会の中には問題を解決するための機会も道具も準備されていません。
生きづらいなかでも,ささやかに,生まれながらに持っていたはずの,社会や人との絆を,出口のない患者隔離や規範化した偏見・差別によって,すべて断ち切られています。
私は,幾つかの薬物依存症回復施設ダルクの立ち上げに参加し,運営の支援をしてきました。
もう22年になります。
福岡市ではビエントというパン屋さん授産施設の立ち上げと運営に参加しています。
東京のコラールたいとうや滋賀の夢の木等からの相談を受けたりしています。
その中で多くの「精神障害者」と呼ばれている人々と関係を持っています。
そのほか多くの精神科の医師や看護師,福祉スタッフの友人がいます。
特殊な才能に恵まれ,人生をかけて,特別な仕掛けと努力と幸運の上で成り立っている,それが「精神障害者」と呼ばれている人々の地域生活と社会生活支援組織です。
それは例外的にしか成り立たず,その特殊な能力を持つ人々の執拗な繰り返しと忍耐,そして偶然によって支えられています。
そのひとつが失われると,また,彼らのひとりがその場を去ることによって,終わりを迎える脆弱さをもっています。
精神病院の多数かつ長期の入院の実態は,目を蔽うばかりです。
私たちが国をあげて地域医療を求めはじめて20年以上になります。
にもかかわらず,患者強制隔離は尚更強固なものになっています。
それは何故かを考えなければなりません。
日本人の精神病はほかの国の人々と比べて,重度且つ難治なのでしょうか。
もちろん,そんなことはありません。
それでは,病院で行っている精神科治療がほかの国のそれと比べて,はるかに質が劣るのでしょうか。
それが原因でもありません。
問題は地域,社会のほうにあります。
医療ではなく法律,法制度が悪い,期限も厳格な要件もない強制隔離を柱にする法律と政策,その社会システムが悪いのだと思います。
期限も厳格な要件もない患者隔離の法律と政策を長いこととってきました。
そのことが,社会に,「精神障害者」は危ない怖い役に立たない、「障害」や「症状」がなくなるまで隔離すべきだ、という偏見・差別を規範化しました。
それを根づかせ,蔓延させてしまいました。
間違っているのは,「精神障害者」と呼ばれる人たちではなく,この患者隔離の法律であり政策であり,それを許してきた主権者であり,偏見・差別を知りぬぐおうとしない市民のほうだと思います。
私はハンセン病訴訟を今もしています。
ハンセン病と精神病の患者隔離にかかる法制度は双子です。
いずれも,出口がなく歯止めの効かない強制隔離,とそれが患者に対する偏見・差別を規範化して,作出,助長,持続させました。
違うのは医療と保護を担う施設が国か民間か,担う人が国家公務員か私人かの違いです。
出口がなく歯止めの効かない強制隔離を民間に丸投げするなんてとんでもない法制度です。
隔離ではなく絆です。
私たちに必要なのは隔離ではなく絆です。
事件があれば,事件の原因を「精神障害」とし,その再発防止を「精神科医療福祉」に求め,出口のない歯止めの効かないこの患者隔離制度を持ち出して,ますます患者の隔離管理を強化する。
そのことによって,主権者が抱く社会の矛盾や不安を糊塗する。
今回もそうです。
アイデアを欠いたいつものやり方です。
社会が除くべきは,「精神障害者」や「精神障害」ではなく,精神機能特性をもった人々への規範化された偏見と差別です。
精神の「障害」や「症状」をもったままでは地域で平穏に生きることを許さない患者隔離の法制度であり,そのことによってもたらされた私たちの誤った規範意識であり,頑なな常識であり,良心であり,正義感であり,道徳感であり,美意識です。
私は,「精神障害者」への社会の差別構造体を取り除き,あらゆる精神機能特性をもった人々が「障害」や「症状」をもったまま,地域での生活が可能になるような,社会システムを作り上げる,本日は,そのための議論をお願いします。