平和への手段-“I love China”“I love Korea”

平和を構築するために必要ならば最低限の戦争や暴力、武力や威嚇による抑止を肯定するという。敵が攻めてきたそのときに、敵に対して愛情をもって接することにどれほどの意味がある。言論や文化、外交やルール、相互理解や倫理を尊重することは自国の平和を保つために無力であるばかりか、ときに敵を利することになりはしまいか。そんな風に合理的に論理的に議論される。

でも人類の歴史は、どんな戦争も悲惨を極めるものでしかなかった。戦争は人を殺し、人の住む町を壊し、人が生きるためになくてはならない田や畑や森や山、川も海も汚した。そのあとに来たものは平和というには程遠い憎悪と絶望だけだったろう。人はそこから立ち上がることができた。しかし、人は戦争や暴力、武力や威嚇をコントロールできなかったし、これからもできはしない。

なんのために平和が必要なのか。私の場合、なにより人を殺したくはないし、人の住む町や村を壊したくない。そうしないで生きていきたい。それは自分だけではなく、友人にも知人にも国にもそうであってほしい。そんな人として生きることの切実な思いからだ。

そうであれば、戦争や暴力、武力や威嚇による抑止を平和構築のための手段とすることは矛盾してしまう。一見合理的で論理的に見えても、なんのために平和であろうとするのか。その目標によって戦略や手段の重要さと順位を考えるべきだ。だからあくまでも平和的手段による平和の達成を選択せざるを得ないと思う。

私を含めて私たちは絶対的平和主義の名に甘んじてきた。やるべき平和的手段による平和的戦略を怠ってきた。平和的手段や平和的戦略といっても問題が大きすぎて簡単にはつかめない。文化であり、外交であり、言論であり、法と規則であり、倫理と相互理解によること。そうはいってもその実践をこの身に引き寄せて描けているわけでもない。

ただ、自分自身ももちろん、友人にも知人にも、国にも、人殺しや町壊しをしてほしくないしさせたくない。その平和への気持ちを込めて、私はいまあえて“I love China”“I love Korea”を口にし繰り返そうと思う。


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