コストパフォーマンス

政策評価のひとつの手段として使われる。費用対効果、コストベネフィットとも言う。実際に数値を算出したものを見ることは少ない。効果を費用で割って、費用が安く、効果が高いほど、コストパフォーマンスが高いということになる。

私的な取引では、その利害に立つ人が、拠出する費用と満たされるものの価値を天秤にかけることによって計ることになる。しかし公共政策にはその関係が見えにくい。むしろ見えないと言ってよい。そこで公的資金によって賄われる公共政策のコストパフォーマンスが問われることになる。

よく槍玉に挙がるのが、生活保護政策、人権政策、福祉環境政策などである。パフォーマンスがないことを前提に議論が展開されたりする。逆に、経済政策、公安・治安施策、産業政策などはパフォーマンスを疑われることすらない。これでは本来のコストパフォーマンスとは言えない。

人類全体とその歴史を大樹ととらえてみて、その幹を太くするもののパフォーマンスや長い年月を経て実りに結びつくパフォーマンスが正確に計測される必要がある。目の前のパフォーマンスばかりに目を凝らしていては広く長く深く続くものはとらえがたい。

刑罰の種類を増やし、罰を重くすると犯罪が減る。そうだろうか。刑罰を増やすたびに警察組織を増やすことになる。そのコストは犯罪の抑止に見合っているか。私たちの社会は犯罪が人口比にして世界有数に少ない国だ。その少ない犯罪をさらに減少させるために刑罰を増やすことで期待できるのか疑問だ。

産業政策のパフォーマンスを疑わなくてもよいのだろうか。原子力産業では甚大なリスクが賄いようのないほど巨大なコストに転換することを知った。経済政策は何のリスクもないのか。そんなことはないはずだ。アベノミクスの裏を返せば、これまでの経済政策がとんでもない間違いによって、私たちの社会に甚大な損失を与えていたと宣伝しているようなものだ。

人権や福祉政策はどうか。私たち国民ひとり一人が豊かに働き多様に創造して社会づくりに貢献する。そのための必要不可欠な政策としてそのパフォーマンスはとらえきれないほどに大きなものとなる。そして平和政策。戦争のない時代を生きることはすべての人間の祈りにも等しい願いだ。戦争のない時代を築くことは代えがたいパォーマンスとなる。そのため政策として、軍備なのか非軍備なのか。非軍備政策に軍備にかけるコストの100分の1も使えば、同等の効果を持つ平和政策を紡ぎだせるだろう。

目の前のものや分かりやすい標語は人の目をとらえやすい。でも私たちはワイドビューやズームインを繰り返しながら、公共政策のコストパフォーマンスを割りだし、そのための確かな情報を得る道を求めなければならない。

戦争のない豊かな時代に生を受けた人間としてそうありたいと思う。


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