野中広務さん■人々の痛みのなかにその身をおける人

はじめてお会いしたのは1998年9月7日だったでしょうか、8日だったでしょうか。当時の備忘録を大切に仕舞い込んでどこにあるのやら。手帳ではいずれかの日に野中さんにお会いできる予定を書きこんでいます。衆議院議長、参議院議長や各政党のキーマンと並べて。

この年7月31日13人の原告とともに熊本地裁に「らい予防法」違憲国家賠償訴訟を提起しました。この裁判は国を相手に患者隔離は違憲違法であるとしたものです。戦後歴代の国会議員と厚生大臣のすべてが原告らに対して違法な人権侵害を行い続けた。それは憲法に違反し継続的な不法行為として国に法的な賠償責任があるという異例の裁判。海外ニュースでも世界で初めての「Leprosy Suit」として大きく報じられました。「当然認められるべき原告の訴え」と私。「提訴は意外だ」と厚生省担当課長。それぞれの談話が並んでいました。

国会の夏休みが明けるのをまって原告とともに国会議員への挨拶としました。私たちはなぜそのような裁判を提起したのか、そしてなぜしなければならなかったのか。その理由となる「らい予防法」と患者隔離政策の歴史、提訴に至る背景を、私たちの国の統治をつかさどる方々へ直接説明したいと上京したのです。会えないで帰ることになることも覚悟のうえでした。

のちにご紹介する瀬古由紀子さんと中川智子さんに面会いただける議員のお世話をうけました。瀬古さんは共産党、中川さんは社民党。ご両名とも当時衆議院議員としてご活躍中でした。

「野中さんはね。人権派の政治家ですから会ってくれますよ、きっと。」と中川さん。「本当ですか。国相手の違憲訴訟を提起した原告と弁護団に官房長官が会ってもいいですかね。」と私。当時野中さんといえば「自民党の影の権力者」「小渕総理を決めた人」「政治権力を牛耳っている人」などのこわもて評判の高い人でした。だからこそ早い段階でお会いし説明しておきたいという気持ちがありました。ですが前例のないことですし、政治がそんな柔軟に対応できるとは思っていませんでした。あまりにも世間評と乖離した中川さんの見込みに疑問がないわけではありませんでした。

予定された国会議員を回っているときでした。中川さんから連絡が入りました。「野中さんが15分間の時間をとってくれました。すぐに準備してきてください。」狐につままれたとはこのことです。

中川さんの案内で原告の竪山勲さんと私で総理官邸(現在は総理公邸)に向かいました。官房長官室は正面玄関を入って左奥の部屋。弁護士をやっていて最高裁に入ることはあっても総理官邸に入ることがあるとは思っていませんでした。もちろん初めての体験でした。

中川さんは社民党、野中さんは自民党。みなさんはどうして社民党の中川さんが自民党の野中官房長官面談をセットできるのか。それを疑問に思われることでしょう。でも野中さんと中川さんの挨拶がてらの振る舞いをみれば、その信頼のありようが見えました。連立を組んだ時期もあり、土井たか子さんを介した仲でもあったかもしれません。

15分間と区切られた時間。「こちらからの説明は10分間くらいにして、あとは官房長官から話してもらおう。」そんな風に取り決めて官房長官室に入りました。野中さんとお会いするのももちろん初めてでした。

話し始めてすぐにこれは詳しく説明する必要はないなと知りました。緊張し一本調子のあわて口で急ぐ私たちの話を落ち着いて受けながら「かつてこの問題できわめて重大な人権侵害があったことを承知しています。私はいま官房長官という立場にあります。いわば被告国を代表する役割にあります。ですから裁判についてどうこう言うことはできません。しかし解決しなければならない大きな問題がある。そう思っています。」と話されました。

その後ご自分が体験されたハンセン病差別の実際に言及され、心なしか目を潤まされました。原告の竪山さんに「本当によくご苦労されましたね。どうかお体に気を付けられて、この国のため皆さんのために、最後まで頑張ってください。」そうねぎらわれました。

中川さん竪山さんとの帰り道で私はとても幸せな気分になりました。「えらい人じゃがねぇー、野中さんちゅう人は。」何度も何度も竪山さんは繰り返されました。

3年後の2001年5月11日私たちは裁判に勝訴しました。すぐに上京して野中さんにお会いし勝訴報告とともに、お知恵拝借をいたしました。お知恵拝借は小泉総理の控訴断念にとどまらず、その後も長く続き、展開の随所で効果的にいただきました。

薬害肝炎訴訟の解決の時にも、京都の事務所に何度もおじゃましました。ひきつづきお力添えをいただきました。厚生労働省前に原告が全面解決を求めて座り込みました。厚労省も政府も動きが取れません。膠着状態となったとき京都の野中事務所へ出向きました。ハンセン病問題のときと同じです。野中さんは政権の中枢を担う幾人かの政治家に電話で「この方々は重い病気をおして命がけで国のために活動されています。この方々にもしものことがあったら政治は何のためにあるのか。政治家として責任をもってきちんとした解決をすべきだと私は思います。」そう直言していただきました。相手の方々も野中さんと同じ考えだったと思います。ただ自分の考えが野中さんの考えと同じであることで勇気づけられ、そのあとの解決への取り組みは大きく変わったと思います。

「野中さんは政治家の中で最も深く人々の痛みのなかにその身を沈め置くことのできる人」何かの取材の時に原告の気持ちを代弁して私は野中さんをそう表現しました。


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