瀬古由起子さん■大粒の涙がにあう人
人の記憶というものは誤るもの。なにをいまさらですが。
証人の記憶が、被害者の目撃証言でさえ、誤った記憶が確信へと構築される。
これは私たち法曹人の常識です。
その常識を知っているはずの私自身が、何の疑いもなく誤った記憶に支配されていました。自分だけは誤ることはない、などと思うこともなく。
瀬古由起子さんのことを紹介しようと、瀬古さんの著作である「もういいかい?」-ハンセン病と私-という本を読みました。
この表題となった「もういいかい?」について少し解説をします。
国立ハンセン病療養所は13園あります。そのひとつ邑久光明園は岡山県瀬戸内市邑久町虫明にあります。この療養所の少し先まで行くと、同じハンセン病療養所である長島愛生園があります。今は橋が架かっていますが、昔は小舟で渡るしかありませんでした。二つとも長島という島に設置されました。
この邑久光明園に中山秋夫さんが住んでおられました。この二園で最も早く国賠訴訟の原告になられ、瀬戸内訴訟原告団代表をされた方です。2007年12月4日87歳で亡くなられました。ハンセン病政策の隔離被害者であり全盲の詩人です。はじめてお会いした時だったと思います。中山さんにこう言われました。
「八尋さん、ハンセン病患者は隔離されたまま一生を終えると言われとるやろ。あんたどう思う。ハンセン病患者はな、一生が終わってもまだ隔離されたままや。それがハンセン病患者や。死んでも故郷には帰れん。死んでも社会の火葬場で焼かれることはない。ここの療養所のなかで焼かれ弔われる。焼かれて骨になっても、故郷の墓にもどることは許されん。わかるかあんた、この意味が、裁判するあんたに。」
その中山さんがこの心情を川柳にしたものがあります。
「もういいかい 骨になっても まあだだよ」
瀬古さんはこの中山秋夫さんの川柳から表題をとったのだと思います。
話をもとに戻します。この「もういいかい?」の本に「怪しいルス電。ストーカーか? 犯人は・・・・」という見出しでこんな文章がありました。
宿舎に帰ったらルス電がピカピカ。赤いボタンを押すと、
「早く出てこい!」
「門を開けろ!」
「このひどい仕打ちが小泉さんの改革ですか!」・・・翌日「怪しい電話が」とみんなに声をかけたら、民主党の川内博史議員が「瀬古さん、ひょっとして何かの拍子に自分でかけたとか?」と。調べてみるとありました。犯人はこれ!なんと私の携帯・・・。
前回の中川智子さんのこととして紹介したエピソード。実は瀬古さんのエピソードでした。私はリアルタイムに本人からうかがったのです。それが私の記憶のなかで、瀬古さんから中川さんに変わっていました。ぜんぜん気づきませんでした。
そういえば今春、中川さんにお会いしたとき、このエピソードを話題にしました。そのときの中川さんの反応は「そんなことあったかしら。」というものだったなあ。
この場をかりて、瀬古さんと中川さんにお詫び申し上げます。
ことほど左様に記憶とは間違いやすく、間違いないと信じやすいものです。
前振りが長くなりました。
瀬古さんは、当時共産党所属の衆議院議員でした。党所属の衆議院議員の数は少なく、一人で多くの課題を担っておられました。にもかかわらず瀬古さんはハンセン病問題、とくに国賠訴訟に誰よりも早くかかわってこられました。わたしたち原告弁護団をその始まりの時からずっと支援していただきました。
瀬古さんにはじめてお会いしたのは、国賠訴訟提起前のシンポジュームです。このシンポジュームは九州弁護士会連合会主催の2回目の催しでした。
1回目は1996年6月15日福岡市で開催しました。「らい予防法廃止問題を考える」と題して行いました。その春、らい予防法の隔離条項は廃止されました。けれどもその被害回復、人間回復はなされていない。社会正義もまだ回復してはいない。これから社会が果たすべき役割は何か。そのようなことについて議論しました。
らい予防法の患者隔離条項は憲法に違反している。国には賠償責任がある。そういう在園者の方々の声を聞いたのは、この場が初めてでした。
九州弁護士会連合会が行った九州5園の在園者アンケート結果をこのシンポジュームで発表しました。その内容は、わたしたち弁護士へはもちろん、その場にいるすべての人々に責めを問うものとなりました。
2回目は1998年2月28日やはり福岡市で開催しました。「人権の回復を求めて―ハンセン病問題シンポジュウム」でした。ここでは「ハンセン病問題」が病気や治療や公衆衛生など医学の問題ではなく、社会の課題であることを確認しました。「ハンセン病問題」とは、患者隔離という間違った法律と政策がもたらした未曾有の人生被害について、社会が回復責任を負う問題であることを明らかにしました。
このシンポジュームに瀬古さんは国会議員として参加しておられました。
その席上、穏やかで落ち着きのある、女性としては少しひくいハスキーボイスで話されました。
「私はハンセン病療養所に隔離収容されてこられた方々が、どんなにつらく、悲しく、人生を生き抜いてこられたか。そのことを想うだけでもう胸がいっぱいになります。国を相手に裁判をするということは、ご高齢のうえに、さらにたいへんな重荷を背負われることになるのだと思います。でもそう決心される方がおひとりでもおられれば、私は全力で裁判を支援いたします。」
大きな瞳に大きな涙を湛えて、ひとこと一言、つまりながら。
その後私たちは、国賠訴訟を準備し、この年の7月末に提訴しました。その後3年に満たない2001年5月、原告全面勝訴判決と国の控訴断念を得ました。
瀬古さんはその約束通り、いつのときも私たち原告弁護団に寄り添って活躍されました。
すべての党派の方々と、政治家として、国会議員として、そして人間として、この問題の理解を広め、同志を募り、党派を超えた大きな力で、私たちを支え続けてくれました。
その折々、在園されておられる方々に話が及ぶとき、瀬古さんは、きっと大きな瞳に大きな涙を湛えられました。
私は、ほんとうに美しい涙だなあと、思いました。
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