いのちなきところ正義なし 2014
いのちなきところ正義なし(No Justice without Rights)2014を開催しました。
10月23日に衆議院議員会館1階国際会議場で午前10時から午後1時まで。
私がスピーチしたのは法と人権(Justice and Human Rights)~法、正義、処罰に関する国際的規範 世界と日本との対話~のセクションでした。
そこでのスピーチの原稿を掲載します。
日本における刑事裁判制度と死刑廃止と題して
私はえん罪福岡事件再審請求弁護団の代表をしています。
福岡事件については会場にパネルを準備し展示しました。
ご覧いただきたいと思います。
事件の核心を簡単に述べます。
1947年5月20日福岡市で起きた殺人事件にかかる冤罪事件です。
のちに死刑囚となる西武雄、石井健治郎を含む7人が強盗殺人罪として起訴されました。
この7人の全員が裁判では西武雄の首謀、指示を否定しました。
射殺を実行した石井健治郎は「西君はなんも知らん。」と繰り返しました。
それでも判決は、捜査段階での拷問や威迫によって得た自白調書を証拠として、西武雄を主犯と認定して死刑を宣告しました。
西武雄と石井健治郎は何度も再審請求をしました。
西武雄はみずからを「死なぬ死刑囚」と鼓舞し、ハンセン病療養所に仏画と写経を描いて得た報酬で梵鐘を寄贈しながら、事件には関与もしていないと訴えました。
石井健治郎は強盗目的はなく抗争だと誤って射殺したと主張し、「西君はなんも知らん。」と言いけました。
私たちの国では1975年5月20日白鳥決定がだされ再審請求の門が開かれました。
それから日をおくことなく同年6月17日、西武雄は死刑を執行され、石井健治郎は恩赦によって無期懲役へと減刑されました。
石井健治郎はのちに仮出獄し、齢90をこえてもなお死ぬその時まで「西君はなんも知らん。」と涙を流しながら訴え続けました。
戦後すぐの拷問による捜査段階の自白調書だけで死刑が執行され、それがいまだに是正されていません。
私たちのこの国では、このように国が法制度として、人間に死刑を宣告し、人間のいのちを奪っています。
この死刑制度という社会システムを選択しているのは私たちです。
死刑執行人でも、法務大臣でも、裁判官でも、検察官でも、弁護人でも、警察官でもありません。
私たち一人ひとり、そして私たちが選んだ国会議員の皆さん方こそが、この死刑制度の法律を作り、彼らに運営をさせています。
なぜ私たちの国は死刑制度を廃止しないのでしょうか。
私たち日本人は死刑を廃止したヨーロッパやアメリカ18州の人々とは比べられないほどに、残虐非道で更生の余地がまったくない国民性をもっているのでしょうか。
そんなことはありません。
私たちは彼の地の人々と同じように残虐非道の行いをしますが、優しいことも正しいこともしますし、加害から回復して人間性を取り戻すことができます。
日本での殺人件数は、死刑制度を廃止したイタリアやフランスやイギリスと比べ、人口比で2ないし3分の1、アメリカの10分の1です。
とくに若者の殺人件数は希少とまで言われています。
その国で重罰化を推し進め、死刑を執行し続ける、その正義はどこにあるのでしょうか。
それは犯罪を予防するためでしょうか。
被害者を被害から回復させるためでしょうか。
犯罪を予防するためには人間が犯罪に至った道筋を丁寧に辿ることが不可欠です。
そのためには加害者が加害から回復し、みずからを語る必要があります。
被害者が、被害から回復するためにも、そのなぜを究明する必要があります。
死刑制度はこれらのすべてを阻みます。
それは日本独特の伝統やしきたりからでしょうか。
そんなことはありません。
日本もかつて死刑を廃止した時代があります。
それは多数の日本人が死刑制度に賛成しているからでしょうか。
死刑廃止国でも死刑制度に多数の国民が賛成していました。
どこの国でも国民の多くは教えられるままに、死刑という正義を信じて疑うことができなかったのです。
世界における死刑廃止の流れは、死刑制度が人類社会にとって絶対的でも普遍的でもないことを示しています。
それは人間が人間を殺すことはいけない。
人間を守るべき国が人間を法制度として殺すことはもっといけない。
人間にも国にも人殺しによる復讐を許してはいけない。
被害者・遺族が人殺しによる復讐をしないで被害から回復できる社会こそ正義に適う。
そういう考えによるものです。
また、裁判は真実ではなく真実らしさを求める制度です。
裁判における証明は科学的証明ではなく歴史的証明です。
死刑判決も限られた証拠によって、高度の蓋然性による確からしさを認めたにすぎません。
それは常に反証の余地を残します。
隠された反対証拠によって、死刑判決は覆るべきことを予定します。
死刑判決はいわば仮説にとどまる判断です。
死刑制度はこのように冤罪死刑を内包しています。
国は死刑執行によって奪ったいのちをお返しすることはできません。
ですからせめて死刑という刑罰を排除する。
それがEUやアメリカ18州が絶対悪として死刑制度を廃止する理由です。
私たちの国の刑事裁判システムは、自白偏重や証拠法制等に不備がみられます。
そのうえヒューマンエラーによる誤判冤罪が加わります。
ところが日本における雪冤の構図はいまだに、たまたまあらわれた真犯人、たまたま証明されたDNA、たまたま開示された捜査部の手中にあった無罪証拠の発見に限られています。
これでは僥倖に恵まれた数十分の1の冤罪しか雪ぐことができません。
雪ぐことのできない冤罪の中には救うことのできるいのちいくつもがあります。
今私たちの隣に座っておられる袴田巌さんもそのおひとりです。
死刑制度を絶対悪として廃止したEUやアメリカ各州の国と地域は、日本人のいのちもまた死刑によって奪うことはありません。
その当然のこととして、日本が死刑によって彼の地の人間のいのちを奪うことを許さないでしょう。
国際人権保障法制や外交圧力を屈指して自国民のいのちを守ろうとするでしょう。
これに対して私たちの国は彼の地の人間に死刑を執行し、いのちを奪うことの国際法的正義を示しうるのでしょうか。
国際法的正義は国や国籍によって人間のいのちに格差を設けないでしょう。
私たちも、日本に住む人間のいのちは死刑廃止国に住む人間のいのちよりも軽いなどということは、とても容認できません。
ヴィクトール・ユーゴーは1832年、「死刑囚最後の日」その序において、「秩序は死刑執行人とともになくなりはしない」というメッセージを私たちに残しました。
これは死刑制度を廃止しても法秩序はなくなったりしない。
法秩序を失わせる要因は、教育を受けることを妨げ、労働を得させることができず、家庭を築く機会をことごとく奪い、犯罪者を含むあらゆる個人を、孤立や貧困や絶望に陥れて、その人権でありいのちを踏みにじってしまう、社会システムの方にある。
死刑制度の廃止によって、法秩序がより高まることがあっても、失われることはない。
そういうメッセージだと思います。
世界は今これを実証しようとしています。
人類の死刑廃止への営みに私たちも参加したいと思います。
ご清聴ありがとうございました。
注:福岡事件について詳しくは、当サイトのマイバックページズ、事件、福岡事件を参照ください。